ライバル同士が激突
これまで中世におけるイギリスとフランスの歴史を紹介してきました。この2国がついに百年戦争(1339~1453)で激突します。
今まで結構仲悪そうでしたもんね。
ヨーロッパの2大国による覇権争いです。まずは百年戦争が始まったきっかけから見ていきましょう。
フランドル地方の奪い合い
まず一つが領地問題です。フランス北部に、フランドル地方という毛織物の名産地があります。この地を巡って、イギリスとフランスは常に争っていました。
フランス王位継承問題
そして、フランス王位継承問題です。フランスでカペー朝の血筋が途絶え、新たにヴァロワ朝が成立しました。これに対して、イギリス王エドワード3世がイチャモンをつけます。
エドワード3世
俺の母さんはカペー家の出身なんだ。だからフランスの王位は俺が継ぐべきだ!
うーん何だか無理がありそうな主張ですね…
こうしてエドワード3世がフランス王フィリップ6世に宣戦布告し、百年戦争が始まりました。
序盤はイギリス優勢
クレシーの戦い
百年戦争の前半はイギリスが優勢でした。1346年のクレシーの戦いでは、約1万2000人のイギリス軍が3~4万人のフランス軍を破りました。
長弓兵の活躍
クレシーの戦いでは、イギリス軍は長弓兵(ちょうきゅうへい)を駆使してフランスを圧倒しました。名前の通り、長い弓を使う兵士たちです。画像の向かって右側にいるのが長弓兵です。
エドワード黒太子
好調なイギリス軍を率いたのがエドワード3世の長男、エドワード黒太子です。英語だと「エドワード・ザ・ブラック・プリンス」です。黒色の鎧を着ていたので後の時代にそう呼ばれるようになったという説があります。
めちゃくちゃかっこいい呼び名ですね。
その名前に負けないぐらい、エドワード黒太子は優秀な軍人でした。参加した戦いでは連戦連勝で、フランス王を捕虜にする程でした。
世界遺産
モン・サン・ミッシェルとその湾
フランス北西部のサン・マロ湾の岩山に築かれた修道院。百年戦争の前半にイギリスがフランスの大部分を支配していくなか、フランスはモン・サン・ミッシェルを城塞として使用し、イギリス軍からの攻撃に耐え抜いた。
奇跡の少女ジャンヌ=ダルク
イギリス軍にいいように攻められ、時を同じくして国内では黒死病(ペスト)が流行し、フランスは崩壊の危機まで追い詰められました。
フランス万事休すですね…
ここでフランスに救世主が現れます。ジャンヌ=ダルクという当時16歳の農民の娘が、「国を救いなさい」という神からのお告げを聞くのです。フランス王シャルル7世は、そのお告げ通りにジャンヌ=ダルクを当時イギリス軍に包囲されていたオルレアンに派遣しました。そしてジャンヌ=ダルクの統率のもとに士気を上げたフランス軍は、見事にイギリス軍を破りました。
16歳の少女が国を救うだなんて、漫画みたいな話だ…
これをきっかけにフランスは形勢逆転し、カレーを除く全国土からイギリス勢力を追い出しました。そしてフランスの勝利で百年戦争は終結しました。いかにジャンヌ=ダルクの登場がターニングポイントであったかが計り知れますね。
戦後の影響
百年戦争の後、イギリスとフランスはどのような道を辿ったのか見ていきましょう。
フランス
フランスでは、百年戦争の長期化のために諸侯と騎士が没落しました。戦争に駆り出されると武器代などでお金を使うからですね。その一方で、国内の立て直しに尽力する国王への権力集中が加速していきました。
イギリス
イギリスでは百年戦争後も戦争が続きました。今度は内戦です。ランカスター家とヨーク家という2つの家系が、王位継承権を巡って争いました。これをバラ戦争(1455~1485)といいます。諸侯・騎士もどちらかの派閥について戦い、結局彼らは没落しました。
戦争の結果、ランカスター家のヘンリ7世が王に即位し、テューダー朝(1485~1603)が新たに始まりました。
POINT
百年戦争の結果イギリスとフランス共に諸侯と騎士が没落し、王権が強化された。この後両国は絶対王政へと進んでいく。