中世の時代、キリスト教から「カトリック」と「ギリシア正教」という2つの宗派が生まれました。その背景について見ていきましょう。
ローマ教会 VS コンスタンティノープル教会
ローマ帝国の末期ごろのお話です。当時、五本山と呼ばれる5つの有力なキリスト教会がありました。その中のツートップがローマ教会とコンスタンティノープル教会です。この2つの教会はバチバチに主導権争いを行っていました。
そして395年のローマ帝国の分裂によって、ローマ教会は西ローマ帝国の保護下に、コンスタンティノープル教会はビザンツ帝国の保護下に入りました。
五本山の所在地
- ローマ
- コンスタンティノープル
- アンティオキア
- イェルサレム
- アレクサンドリア
教会の対立
MEMO
教会はあくまで精神世界の指導者なので、現実世界での保護者(国)が必要だったのです。聖像崇拝論争
ローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立を深めた「聖像崇拝問題」について、解説します。
西ローマ帝国の滅亡
西側のローマ教会ですが、不運にも保護者である西ローマ帝国がゲルマン人によって滅亡してしまいました。
そこでローマ教会は、ゲルマン人にキリスト教を布教しようとしました。しかし言葉も文化も違うゲルマン人に、どうやって布教するのか。そこでローマ教会が使ったのが「聖像」でした。聖像というのは、イエスや聖母マリアの絵や像のことをイメージしてください。
POINT
言葉の通じないゲルマン人に布教するために、聖像を使うことで視覚的に分かりやすくしました。
レオン3世の聖像禁止令
ローマ教会の聖像を用いた布教に異を唱えたのが、コンスタンティノープル教会の保護者でもあるビザンツ皇帝レオン3世です。726年にレオン3世は聖像禁止令を出しました。
これにはローマ教会は猛反発です。ゲルマン人への布教に聖像は必須ですからね。
レオン3世はなぜ聖像禁止令を出したか?
- 初期のキリスト教は偶像崇拝を禁ずる宗教だったから。
- 偶像崇拝を禁ずるイスラーム教との対立を緩和するため。
当時のビザンツ帝国はイスラーム勢力の侵入に悩まされていました。聖像禁止令の背景にはそんな事情もあったのです。
POINT
聖像禁止令によって、ローマ教会とコンスタンティノープル教会の分裂は決定的となりました。
ローマ教会の保護者探し
西ローマ帝国の滅亡後、ローマ教会は保護者探しに必死です。どこか強そうな国があれば、自分たちを守ってもらおうとしていました。
フランク王国に接近
上述の聖像禁止令と同時期におこったのが、トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)です。フランク王国のカール=マルテルがイスラーム勢力を追い払い、ヨーロッパ世界を守った戦いです。
ローマ教皇(ローマ教会のトップ)はこれを機にフランク王国に接近し、さらに「ピピンの寄進」でよりフランク王国との結びつきを深めました。
フランク王国についてもっと知りたい方はこちら。
カールの戴冠
800年のクリスマスの日、ローマ教皇のレオ3世はフランク国王のカール大帝に冠を授け(カールの戴冠)、西ローマ帝国の復活を宣言しました。ローマ教会の保護者探しもこれにて終了です。
カールの戴冠
POINT
カールの戴冠によって、ゲルマン人・ローマ文化・キリスト教の3要素が融合しました。 ここに中世西ヨーロッパ世界の基盤が出来上がったといえます。
カトリックとギリシア正教へ
1054年にキリスト教会は完全に分裂し、ローマ教会は「ローマ=カトリック」、コンスタンティノープル教会は「ギリシア正教」と名乗るようになっていきました。
キリスト教の東西分裂
キリスト教の東西分裂 まとめ
まとめ
- ローマ帝国の滅亡後、ローマ教会は西ローマ帝国の、コンスタンティノープル教会はビザンツ帝国の保護下に入り、対立した。
- ゲルマン人への布教に聖像を用いたローマ教会に対して、ビザンツ皇帝のレオン3世は聖像禁止令で対抗した。
- ローマ教会は当時強大化していたフランク王国と接近し、「ピピンの寄進」でより結びつきを強めた。
- 「カールの戴冠」によって西ローマ帝国の復活が宣言され、西ヨーロッパ世界の原型が出来上がった。
- ローマ教会はローマ=カトリック教会、コンスタンティノープル教会はギリシア正教会へと名前を変え、キリスト教世界は完全に分裂した。