- 建国者:趙匡胤
- 都:開封
- 領土:中国全土
- 存続期間:960~1127年
- 特徴①:平和的・現実主義的
- 特徴②:北方異民族の圧迫に悩まされていた
ここまでの流れ
唐の滅亡後、有力な節度使が武力で争う五代十国時代に入りました。短命な5王朝が連続で成立と滅亡を繰り返した混乱の時代でした。
北宋の建国・統治方法
五代十国時代の混乱を鎮め、新たに北宋(ほくそう)王朝が成立しました。建国者は趙匡胤(ちょうきょういん)という人物です。
趙匡胤
- 人物:北宋の建国者
- 功績・政策:文治主義へ移行
- 在位:960~976年
- 性格:控えめで人望が厚い
文治主義
趙匡胤の功績として、文治主義への移行が挙げられます。文治主義とは、学識のある官僚によって政治を行う考え方のことです。唐末から五代十国にかけての混乱の原因は、節度使が武力行使に頼った政治をしたからだと、趙匡胤は考えたのです。
科挙に殿試を追加
北宋では、科挙の最終試験に殿試 (でんし)が追加されました。殿試の内容は皇帝による面談です。文治主義を実践するため、より優れた役人を採用しようとしたのです。
北宋の悩み事
北方異民族の圧迫
北宋の悩みの種に、北方異民族の存在がありました。その中から遼(りょう)、西夏(せいか)、金(きん)を紹介します。
遼・西夏・北宋の位置関係(11世紀頃)
遼
- 建国者:耶律阿保機 (やりつあぼき)
- 民族:契丹(きったん)
- 領土:東モンゴル
- 存続期間:916~1125年
- 特徴①:北宋と「澶淵の盟」を結んだ。
- 特徴②:金の攻撃により滅亡。
遼は北宋をしつこく圧迫しており。北宋にとって遼との戦いは大きな負担でした。そこで北宋は和平条約を結び、戦争を回避しようとしました。その条約が、1004年に締結された澶淵の盟 (せんえんのめい)です。
西夏
- 建国者:李元昊(りげんこう)
- 民族:タングート
- 領土:中国北西辺境部
- 存続期間:1038~1227年
- 特徴①:北宋を圧迫
金
- 建国者:完顔阿骨打(ワンヤンアグダ)
- 民族:女真族
- 領土:契丹の東部
- 存続期間:1115~1234年
- 特徴①:遼を滅ぼす
- 特徴①:猛安・謀克による統治
金は遼を攻撃し、滅亡に追いやりました。このとき遼の生き残りの耶律大石(やりつたいせき)という人物は、中央アジアまで逃げた後、西遼という国を新たに作りました。
金の統治
- 猛安・謀克:金の軍事・行政組織の名称
- 全真教:道教をモデルにした新たな宗教
北宋は貧乏国家
- 北方異民族に貢ぎ物をして、「平和をお金で買う政策」をとっていたから。
- 頭の良い優秀な官僚に、高い給料を払わなければいけないから。
2つ目です。文治主義を掲げる北宋では、たくさんの官僚が国に雇われていました。その官僚たちに払う給料も、財政圧迫の要因でした。
財政難に陥った北宋
王安石の財政改革
こうした状況で、なんとか国家財政を建て直そうとした人物がいました。それが王安石(おうあんせき)です。宰相(皇帝の補佐役)に任命された王安石は、新法と呼ばれる政策を実施して、財政改革を進めました。
- 青苗法:貧しい農民を救済する
- 均輸法:物価安定
- 市易法:中小商人の保護
- 募役法:公共事業
- 保甲法:治安維持
- 保馬法:軍馬の確保
富裕層が新法に猛反発
地主や大商人といった富裕層は、王安石の改革に反対しました。自分たちにとって不利な政策ですからね。
その結果、国内で新法党と旧法党の派閥争いが生まれてしまい、北宋はますます弱体化していくのでした。
北宋の滅亡
王安石の改革むなしく、北宋がついに滅亡の時を迎えます。
靖康の変
北宋の北側に金という国がありましたよね。この金が北宋に攻め込んできて、皇帝とその親を捕らえてしまったのです。この事件を「靖康(せいこう)の変」(1126~1127)といいます。
金と南宋(12世紀頃)
さっそく仲間割れの南宋
南宋では、金との外交策を巡って国内で対立が発生しました。
主戦派
- 代表人物:岳飛(がくひ)
- 主張:金を倒して中国北部を取り戻そう
和平派
- 代表人物:秦檜(しんかい)
- 主張:金は強いし、和平を結ぼう
北宋 まとめ
- 五代十国の混乱を鎮め、趙匡胤が開封を都に北宋を建国した。
- 北宋は文治主義をとり、科挙官僚が重用され、節度使は廃止された。
- 北宋は遼、西夏といった北方異民族の圧迫に悩まされており、遼とは澶淵の盟という和平条約を結んだ。
- 財政難に陥った北宋は王安石が新法と呼ばれる改革を行ったが、富裕層の反発を招き、北宋はかえって弱体化した。
- 12世紀には女真族の金が北宋を滅ぼし(靖康の変)、高宗が南方に逃れて、臨安を都に南宋を建国した。
- 南宋国内で主戦派と和平派による対立が起こり、和平派が勝利した。