ざっくり要点
- 14世紀にティムールがつくったイスラーム王朝
- オスマン帝国にも勝つぐらい強い国
- ティムールが死んだあとは分裂を繰り返して滅亡
ティムール朝というイスラーム王朝について解説していきます。
プロフィール
- 建国者:ティムール
- 都:サマルカンド
- 領土:中央アジアからイラン
- 存続期間:1370~1507年
- 特徴①:チンギス=ハンの子孫を自称するティムールが、モンゴル帝国の復活を掲げて建国。
- 特徴②:トルコ=イスラーム文化が成熟した。
ティムール朝の建国
ティムール朝がどのように建国されたのか、見ていきましょう。
モンゴル帝国の復活?
ティムール朝のルーツはモンゴル帝国にあると言えます。13世紀に急速に領土を拡大したモンゴル帝国は、14世紀になると分裂・解体していきました。
分裂後のモンゴル帝国
MEMO
ティムールはチンギス=ハンの子孫を自称しており、モンゴル帝国の復興を目指して建国しました。サマルカンド
ティムール朝の首都はサマルカンドに置かれました。
世界遺産
サマルカンド文化交差路
シルクロード交易の中継点に位置するサマルカンドは、ティムール朝の首都として栄えた。世界各地から著名な建築家や芸術家が訪れ、中央アジアのイスラーム文化の中心地となった。地下にある墓室にはティムールの遺体が安置されている。
トルコ人のイスラーム化
ティムール自身はトルコ系の民族で、宗教はイスラーム教を信じていました。そんな彼がティムール朝をイランにまたがる地域につくったことで、イラン=イスラーム文化がトルコ人にも伝えられ、トルコ人独自のイスラーム文化が栄えました。
ティムールによってイラン人の世界とトルコ人の世界が統一されたのです。
ティムールが中央アジアを大荒らし
圧倒的な軍事力
ティムール朝は征服戦争を繰り返して領土をどんどん拡大しました。1402年のアンカラの戦いでは後に大国になるオスマン帝国を破るなど、ティムールはわずか1代でかつてのモンゴル帝国の領土の半分にあたる大帝国を築きました。
ティムール朝の領土
幻の決戦
オスマン帝国に勝利したティムールは。続いて中国の明を征服しようとしました。
ティムール
モンゴル帝国の復興までもう少しだ。次は中国に遠征してもっと領土を広げるぞ。
こぼれ話
遠征の道中、兵士の士気を上げるために宴会が開かれました。その頃にはティムールは既に病気にかかっていましたが、宴会で酒を飲み続け、遂に倒れてしまいました。
ティムールの死後
文化系の君主たち
ティムールの死後、彼の子孫たちがティムール朝を受け継いでいきました。ティムールが積極的に戦争を仕掛けて領土を広げる「体育会系」君主とするなら、その後の君主たちは「文化系」と言えるでしょう。
第4代君主のウルグ・ベクの時代には、文学、天文学などの学問や、細密画(ミニアチュール)と言われる画法が発達しました。細密画とは、イスラーム教に関する書物の挿絵などに用いられた、緻密で装飾的な画法です。
細密画
分裂・滅亡
ティムールの死後、ティムール朝は分裂を繰り返し、最後はウズベクという遊牧民によって滅亡しました。ティムールの死から約100年後のことです。
ティムール朝 まとめ
まとめ
- 1370年、チンギス=ハンの子孫を自称するティムールがティムール朝を建設
- ティムールは積極的に領土を拡大し、アンカラの戦いでオスマン帝国に勝利
- トルコ=イスラーム文化が栄え、学問や細密画が発展
- 1507年、遊牧民ウズベクによって滅亡。