目次
ブルボン朝とは?
- アンリ4世(在位:1589~1610):初代国王。ナントの王令でユグノー戦争を終結させる。
- ルイ13世(在位:1610~1643):フランス絶対王政の基礎を築く。
- ルイ14世(在位:1643~1715):フランス絶対王政の全盛期を迎える。
- ルイ15世(在位:1715~1774):ルイ14世に続き対外戦争を盛んに行い、財政難を招く。
- ルイ16世(在位:1774~1792):フランス革命で処刑される。
成立~初期
ユグノー戦争
ブルボン朝は、ユグノー戦争(1562~98年)というフランス国内の内乱をきっかけに始まりました。ユグノーとは、フランスにおけるキリスト教カルヴァン派の呼び名です。
戦争の背景
宗教改革以降、フランスでは新興勢力のユグノーと旧派のカトリックがいがみあっており、ついにはカトリック側の貴族がカルヴァン派を虐殺する事件が発生しました。これを機に両者は衝突し、ユグノー戦争が勃発しました。
ヴァロワ朝からブルボン朝へ移行
ユグノー戦争の期間中に国王アンリ3世が暗殺され、約260年続いたヴァロワ朝が断絶しました。その後、ブルボン家のアンリがアンリ4世として王に即位し、ブルボン朝が始まりました。
ナントの王令
アンリ4世は、見事にユグノー戦争を終わらせました。彼は元々ユグノーでしたが、カトリックに改宗し、その上でユグノーに対して信仰の自由を認めました。これをナントの王令といいます。
絶妙なバランス感覚ですね。カトリック派の人間からすると、自分たちの王がカトリックに改宗して悪い気はしません。ユグノー派の人間にとっても、信仰の自由を認めてくれる優しい王という感じがします。
アンリ4世
ルイ13世
アンリ4世の後を受けたのがルイ13世(在位1610~1643年)です。フランス絶対王政の基礎を築いた人物です。父のアンリ4世はユグノー戦争終結後に暗殺されたため、ルイ13世は9歳の若さで王に即位しました。なので最初は母が政治の実権を握りましたが、途中からはリシュリューが宰相として実権を握りました。
リシュリュー
三部会停止
カペー朝の時代から、フランスには三部会という聖職者・貴族・平民の3身分から成る議会がありました。ルイ13世が即位すると、貴族たちは「三部会を招集しろ」と圧力をかけました。国王が幼少であることをチャンスととらえ、自分たちに有利な法律を認めさせようとしたのです。しかしいざ三部会を開いてみると、各身分が好き放題主張するだけに終わってしまったので、これ以降フランス革命の年である1789年まで、三部会は開催されませんでした。
- ブルボン朝創始者のアンリ4世は、ナントの王令を発布してユグノー戦争を終わらせた。
- ルイ13世は幼くして即位したので、宰相リシュリューが実権を握った。
- ルイ13世の治世以降、フランス革命まで三部会は開催されなくなった。
太陽王ルイ14世
フランス絶対王政の全盛期を実現したのがルイ14世(在位1643~1715年)です。
宰相マザラン
ルイ13世が41歳で病死したため、子のルイ14世は4歳で即位しました。4歳の国王に政治が務まるわけもないので、治世の前半は補佐役として宰相マザランが実権を握りました。マザランは王権を強化しようと重税策などをとったので、貴族たちは反乱を起こしました。この反乱をフロンドの乱(1648~53年)といいます。しかし反乱はマザランによって鎮圧され、よりいっそう王権は強化されて絶対王政の確立に繋がりました。
マザラン
重商主義政策
マザランの死後、ルイ14世はコルベールという人物を財務総監に任命しました。コルベールは、貿易を活発にしてフランス経済を向上させる重商主義政策を展開しました。
スペイン継承戦争
ルイ14世は対外戦争を好んだ人物でした。スペイン継承戦争では孫をスペイン王にさせようと画策するなど、国際社会におけるフランスの地位を向上させることに尽力しました。
ナントの王令を廃止
ブルボン朝創始者のアンリ4世が発令したナントの王令は、個人の信仰の自由を認めるものでした。このおかげでユグノーは弾圧されることなくフランス国内で暮らしていくことができました。しかしルイ14世はナントの王令を廃止してしまったのです。
廃止の狙い
ルイ14世自身は熱心なカトリック信者であり、国民全員をカトリックに改宗させることで、フランスの一体感を強めようとしました。
その結果
ナントの王令が廃止された結果、国内のユグノー商工業者が大量に国外に逃亡しました。カルヴァン派はお金儲けに肯定的な思想なので、ユグノーには商工業者が多かったのです。商工業の担い手が減ったことで国内産業の発展が阻害され、フランスの衰退を招いてしまいました。
ヴェルサイユ宮殿
ルイ14世はヴェルサイユ宮殿を建設した人物でもあります。ブルボン朝絶対王政を象徴する、広大で豪華な宮殿です。
ヴェルサイユの宮殿と庭園
パリ郊外にあるバロック芸術を代表する宮殿。ルイ14世が巨額の費用と50年の歳月をかけて築き上げた。宮殿内の「鏡の間」では外国の使者との接見や舞踏会が行われた。
ルイ14世
- ルイ14世の時代にブルボン朝の絶対王政は全盛期を迎えた。
- 財務総監コルベールのもとで重商主義政策をとった。
- ナントの王令を廃止し、商工業者の国外流出を招いた。
- ヴェルサイユ宮殿建設や対外戦争の増加により、財政難が深刻化した。
ブルボン朝の断絶
絶対王政の限界
ブルボン朝時代のフランスは、絶えず財政難に悩まされていました。積極的な対外戦争に、ヴェルサイユ宮殿の建設、ユグノー商工業者の国外流出などがその原因です。また財政難にも関わらず聖職者や貴族などの特権身分は課税対象にならず、平民が重税を課せられました。こうした歪んだ社会構造が、後のフランス革命を引き起こすことになります。
フランス革命
ルイ16世の時代には絶対王政が行き詰まり、フランス革命が勃発しました。平民が特権身分に反発し、最終的にルイ16世は処刑されました。革命を経てフランスは王政から共和政(王のいない政治形態)に移行し、ブルボン朝は一旦ここで幕を閉じました。
一時復活するが…
王政の廃止後、フランスは共和政、ナポレオン帝政と移り変わっていきました。ナポレオンが没落した後は、ブルボン家のルイ18世がフランス国王として即位し、ブルボン朝が復活しました(復古王政)。ルイ18世の死後、後を継いだ弟のシャルル10世はかつての絶対王政を復活させようとしたため、国民が反発して1830年に七月革命が起こりました。この革命でブルボン朝は倒され、フランスはオルレアン朝による七月王政へと移行しました。
- 絶対王政の矛盾はフランス革命を招き、国王ルイ18世が処刑された。
- ナポレオン失脚後にルイ18世が即位してブルボン朝が復活した。
- シャルル10世の王政強化に反発して七月革命が勃発し、ブルボン朝は倒された。