世界一の大国といえば、やはりアメリカです。しかしその歴史は意外と浅く、アメリカ合衆国は建国からまだ約250年しか建っていない国なのです。
アメリカ合衆国は、もともとイギリスの植民地でした。それが、イギリス本国への反抗心から戦争が勃発し、1776年に独立を勝ち取ることになりました。
この一連の出来事をアメリカ独立革命といいます。
現代社会の頂点に君臨する超大国アメリカの源流、アメリカ独立革命について本記事では解説していきます。
目次
北アメリカ植民地の形成
大航海時代 アメリカ大陸の発見
まず、アメリカ独立革命よりもっと前の時代、15~17世紀にまで遡ります。当時のヨーロッパは大航海時代を迎え、それまで未開の地であったアメリカ大陸を発見しました。それ以来、ヨーロッパ諸国は海上貿易を求めてこぞってアメリカ大陸進出を狙いました。特にイギリスは積極的に北アメリカへ進出して、17世紀初頭、最初の植民地であるヴァージニアを北アメリカ東岸に設立しました。その後も立て続けに植民地を設立し、18世紀前半までに13の植民地を建設しました。
コロンブス
アメリゴ・ヴェスプッチ
アメリカ先住民
イギリスvsフランス
北アメリカ大陸に進出したのはイギリスだけではありません。イギリスのライバルであるフランスもまた、同じように北アメリカ大陸に進出していました。
そして両国の間で、北アメリカ大陸の支配権をめぐる戦争が勃発しました。この戦争をフレンチ=インディアン戦争といいます。「インディアン」というのは、ヨーロッパ諸国が到来する以前から北アメリカ大陸に暮らしていた先住民のことです。イギリス・フランスともに、戦力としてインディアンを動員したので、この名前が付けられています。
このフレンチ=インディアン戦争の勝者はイギリスです。イギリスとフランスはパリ条約(1763年)を結び、フランスから広大な領土を得ました。
現在アメリカ合衆国では主に英語が話されていますが、もしこの戦争でフランスが勝っていたらどうでしょうか。アメリカの公用語はフランス語になり、現代の私たちが学校で勉強する外国語も、フランス語になっていたのかもしれません。このように、「もしあのとき〇〇だったら…」を考えてみると、歴史上の出来事も案外身近に捉えられるものです。
その流れを受けて、アメリカのプロ野球リーグ(MLB)の球団「クリーブランド・インディアンス」は、2022年にチーム名を「クリーブランド・ガーディアンズ」へと変更しています。それに伴い、先住民を表すチームロゴも変更されました。
イギリス本国への反発
こうして、アメリカ植民地の人々の間にイギリス本国への反抗心が芽生えていきます。
イギリス
植民地の人たち
すべての紙に課税
そして本格的な対立のきっかけとなったのが、1765年に導入された印紙法でした。これは、あらゆる印刷物に課税する法律です。
植民地の人たち
ここから「代表なくして課税なし(No taxation without representation)」のスローガンが広まり、植民地全体での抵抗運動が展開されることになります。
この抵抗運動を受けて、印紙法は翌1766年に撤廃されました。しかし、イギリス本国への敵対心によって植民地間の結束が強まる結果となりました。
植民地の人たち
お茶を巡る争い
もう1つ、アメリカ独立革命において重要な法律を紹介します。それが1773年に制定された茶法です。
イギリス政府は、東インド会社の財政危機を救うために茶法を制定しました。茶法により、東インド会社は北アメリカ植民地へ通常の関税なしに茶を売ることが認められました。
つまり、今までよりも安い価格で植民地に茶を供給できるようになったのです。その結果、植民地での茶の販売は東インド会社が独占する形となりました。消費者目線ではありがたいようにも思えますが、植民地の密輸業者や地元商人にとっては困る話です。
東インド会社が中国から輸入する「茶」はイギリス国内で大人気となりました。イギリスに根付く紅茶文化の原点はここにあります。
現在も存在するイギリスの紅茶販売企業「トワイニング」社が生まれたのも、1706年のことです。
https://www.twinings-tea.jp/story/history.html
この暴れっぷりに怒ったイギリス政府は「耐え難き諸法(Intolerable Acts)」と呼ばれる高圧的な法律を制定し、植民地に対する締め付けを強化しました。これがさらに植民地の結束を強め、後のアメリカ独立戦争へと繋がることとなります。
アメリカ独立戦争
一般市民が革命ののろしを上げる
植民地の反発が強まる中で、1774年に植民地の代表が集結し、第一回大陸会議が開催されました。この会議ではイギリス本国との和解に向けた話し合いが行われましたがまとまらず、翌75年4月19日、ついにイギリス軍との武力衝突が起こりました(レキシントン・コンコードの戦い)。この戦闘はアメリカ独立戦争の始まりを象徴する出来事であり、植民地民兵たちがイギリス軍に対抗できることを示しました。
レキシントンの広場には、レキシントン・コンコードの戦いで指揮を執ったミニットマン、ジョン・パーカーの像が建てられています。
後の初代大統領が登場
レキシントン・コンコードの戦い後、植民地側はイギリス軍との本格的な戦争に備えるため、1775年5月に第二回大陸会議を開催しました。この会議では、「軍を統一して指揮するリーダーが必要だ」という結論に至りました。そこで総司令官に選ばれたのが、後のアメリカ合衆国初代大統領、ジョージ・ワシントンでした。ワシントンはフレンチ=インディアン戦争での経験を持つ軍人でした。
ワシントン
「独立は常識」
イギリスとの戦いは始まってましたが、多くのアメリカ植民地住民はまだ完全な独立を求めるべきか迷っていました。その時、突如として現れたのが、哲学者トマス・ペインの小冊子『コモン・センス』です。
ペインはその中で王政を批判し、イギリスからの独立こそが「常識(コモン・センス)」であると主張しました。ペインの言葉は広く植民地中に拡散し、独立への支持が急速に高まったのです。
現在の日本に置き換えてみましょう。人口を1億2千万として、5%は600万部です。日本で最も売れた『窓際のトットちゃん』(1981年/黒柳徹子/講談社)が580万部ですので、ちょうど同じくらいです。
しかし発行から3か月というスピードや、当時の植民地の識字率の低さを考慮すると、『コモン・センス』がいかに植民地の人々に多く読まれたかが分かります。
トマス・ペイン
アメリカ独立宣言
1776年7月4日、トーマス・ジェファーソンらが起草したアメリカ独立宣言が採択され、イギリスからの独立が正式に表明されました。この日は、現在でもアメリカの独立記念日として祝われています。
アメリカ独立宣言では、「すべての人は平等に創られ、生命、自由、そして幸福追求の権利を持つ」という理念が掲げられました。これは、当時の君主制や階級社会に対する挑戦であり、民主主義の基本原則を示すものでした。
ついに折れるイギリス
戦争はさらに続きましたが、フランスの支援を受けた植民地軍は、1781年のヨークタウンの戦いで決定的な勝利を収めます。そして1783年、イギリスとパリ条約を結び、アメリカの独立が正式に承認されました。こうして、13の植民地が一つの国となり、世界初の近代的な民主主義国家であるアメリカ合衆国が誕生しました。
イギリス
新たに作られた合衆国憲法では、国民の自由と権利を守るため、三権分立(立法権・司法権・行政権)を採用し、中央政府の権力を抑制する仕組みが導入されました。この理念は、後に多くの国々が参考にするモデルとなります。
フランス革命へ波及
その背景には、フランス、スペイン、オランダといったヨーロッパ諸国が、植民地側を支援した点があります。アメリカ独立を支援することで、イギリスの弱体化を狙ったわけです。
改めて、フランスがアメリカ独立を支援した、という点に注目です。支援を通じて、革命の思想はフランスに持ち帰られます。そして1783年のヨークタウンの戦いのわずか6年後、1789年には、フランス革命が起こっています。このフランス革命をもって、世界史は近世から近代の転換とされています。その点でも、アメリカ独立革命は、単なる建国物語にとどまらず、世界史の新しい時代の幕開けを象徴しているのです。
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