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十字軍をわかりやすく解説

ざっくり要点
  • 中世の時代、カトリック教会が派遣した軍隊のこと
  • イスラーム勢力から聖地イェルサレムを奪い返すために派遣した
  • 結果失敗して、カトリック教会の地位が下がった

十字軍とは? ひとことで

十字軍とは、聖地イェルサレムをイスラーム勢力から奪うことを目的に、ローマ教皇(カトリック教会のリーダー)が派遣した遠征軍のことです。11世紀末~13世紀末までに計7回派遣されました。

十字軍の背景

十字軍派遣に至る背景には、西ヨーロッパ世界が外へ外へと拡大していく動きがありました。
西ヨーロッパの拡大の動きの例
  • 人口増加による土地不足
  • 国土回復運動
  • 巡礼の流行

人口増加による土地不足

当時の西ヨーロッパ世界は人口がどんどん増加していました。その要因に、三圃制(さんぽせい)の普及などの農業技術の進歩があります。

三圃制の普及

三圃制とは、耕地を3つに分けて、それぞれ春耕地・秋耕地・休耕地とする土地利用法です。耕地を休ませることで、土の中の栄養を蓄えることができます。このような農業技術の進歩により、より多くの農作物が収穫できるようになりました。

図
農業生産が増えたことでその分生きていけますから、人口は増えます。しかし人口が増えすぎると、今度は住む場所が無くなってきますよね。なので西ヨーロッパの人々は外の世界に向けて拡大する動きを見せ始めました

国土回復運動

イベリア半島ではレコンキスタ(国土回復運動)が行われていました。当時イベリア半島にまで侵入していたイスラーム勢力を追い出そうと、キリスト教勢力が抵抗した運動です。
イベリア半島の位置

巡礼の流行

また中世西ヨーロッパでは「巡礼」が流行しました。巡礼とは、キリスト教にゆかりのある場所を訪れることです。
中世西ヨーロッパの封建社会、その基礎にあるのが荘園でしたね。荘園という閉ざされた世界においては、唯一の情報発信者である教会の権威は絶大でした。やがて荘園に暮らす人々はキリスト教にどっぷり浸かるようになり、「巡礼をしたい!」という欲が高まってきました。

アニメファンが作品ゆかりの地を訪れることを「聖地巡礼」と言ったりしますよね。

きっかけ

ビザンツ帝国のSOS

西ヨーロッパが拡大の動きを見せる頃、東方の大国ビザンツ帝国に危機が訪れていました。トルコ方面から強大なイスラーム勢力、セルジューク朝が圧迫してきたのです。そしてセルジューク朝は、キリスト教とイスラーム教の共通の聖地であるイェルサレムを占領してしまいました。

聖地イェルサレム
イスラーム教にとって:イスラーム教の創始者ムハンマドが昇天した地
キリスト教にとって:五本山のうちの1つでありイエスも布教した地
困ったビザンツ帝国は、西ヨーロッパ世界に救援要請を出します。助けを求められたローマ教皇ウルバヌス2世クレルモン宗教会議(1095年)を開き、イスラーム勢力を倒してイェルサレムを奪還するために十字軍の派遣を決定しました
ビザンツ帝国の救援要請

ビザンツ帝国のSOS

十字軍は好都合

十字軍の派遣は、西ヨーロッパ世界にとって都合の良いものでした。巡礼に行きたがっている民衆にとっては、聖地イェルサレムを訪れる絶好の機会です。さらに人口増加による土地不足に悩む領主にとっては、戦争によって新たな土地を獲得するチャンスにもなります。

ビザンツ帝国と西ヨーロッパ諸国の利害が一致し、十字軍は派遣されたのです。
POINT
十字軍は、西ヨーロッパ世界の拡大エネルギーを爆発的に加速させました。

教皇の言うことは絶対

十字軍派遣は、ローマ教皇の呼びかけで始まりました。じゃあ教皇が軍隊の先頭に立って指揮を執るのかというと、そんな危ないことはしません。教皇はローマに居座ってあれこれ指示を出すだけです。
それでも民衆は教皇には逆らえません。それだけ教皇の権威が絶大だったのです。そういう意味では、十字軍の派遣はいかに当時の教皇権が強かったかを物語る出来事だと言えます

MEMO
カノッサの屈辱で教皇が神聖ローマ皇帝を懲らしめたのが1077年のことでした。

十字軍の失敗

十字軍はローマ教皇が主催者となり、フランス、イギリス、神聖ローマ帝国などが兵を出し合いました。計7回実行された十字軍の派遣を個別にみていきましょう。

第1回(1099年)

第1回十字軍は、全7回のうち唯一成功した十字軍だと言えます。十字軍は見事にイスラームからイェルサレムを奪い返し、イェルサレム王国(1099~1291)を建設しました。

第2回(1147年)

イスラーム勢力がまた盛り返してきたので、第2回十字軍が派遣されましたが、今度は失敗に終わりました。今後の十字軍は鳴かず飛ばずに終わります。

第3回(1189年)

この頃には、イスラーム勢力の主役はアイユーブ朝に移り変わっています。アイユーブ朝は再びイェルサレムを奪い返しました。そこで第3回十字軍が派遣されましたが、引き分けに終わります。

第4回(1202年)

第4回十字軍は、最も悪名高い十字軍として知られています。アイユーブ朝の本拠地であるエジプトを攻撃するために、第4回十字軍は海路からの侵入を試みました。船での移動になるので、十字軍の人員輸送を北イタリアの都市ヴェネツィアに依頼しました。
しかし出発の日、十字軍の参加者は予定していた3万人の約1/3しか集まりませんでした。これではヴェネツィアに支払う船賃が足りません。ヴェネツィアは「お金払えないんだったら、俺たちのライバルのコンスタンティノープル攻撃してよ。」と十字軍に要求しました。

コンスタンティノープルは、ビザンツ帝国の都です。もともと十字軍派遣のきっかけはビザンツ帝国の救援要請だったのに、これじゃ意味不明な行為ですね。
ヴェネツィアにそそのかされるがまま、コンスタンティノープルを占領した十字軍はこの地にラテン帝国という国を建設してしまいました。

第5回~第7回

その後も、結局十字軍は聖地イェルサレムを奪還することはできずに、およそ200年間に渡って行われた十字軍の派遣は終了しました。

十字軍の影響

全体通してみると失敗に終わった十字軍ですが、西ヨーロッパ世界に大きな影響を与えました。
十字軍の影響
  1. カトリック教会の権威が失墜
  2. 商業が発展

カトリック教会の権威が失墜

十字軍をやろうと言い出したのはローマ教皇でしたね。しかしあまりにも十字軍が負けまくるものですから、民衆は教皇・カトリック教会に対して不信感を募らせました。その一方で、十字軍の遠征に同行して指揮をとった各国の国王は権威を高めました

現場で一緒になって戦ってくれるリーダーには、ついていきたくなりますもんね。

商業が発展

商業面では十字軍はプラスに影響しました。

商業面で十字軍がもたらしたもの
  • 交通網の整備により、人やモノの交流が活発化
  • ビザンツ帝国やイスラームの先進的な文物が西ヨーロッパ世界に流入
  • 十字軍の輸送や補給を担当したイタリアの諸都市が繁栄

地中海商業圏

十字軍の恩恵を最も受けたのが、地中海商業圏と言われる地域です。ヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなどの北イタリアを中心とした商業圏です。ビザンツ帝国やイスラーム商人との交易によって、香辛料や絹織物を輸入して繁栄しました。

世界遺産
街

ヴェネツィアとその潟

中世以降、東西貿易の中継地として栄えたイタリア東部の港町。街の象徴的存在であるサンマルコ大聖堂は、当時の繁栄ぶりを物語っている。

北ヨーロッパ商業圏

北ヨーロッパ商業圏は、北海・バルト海を中心とする商業圏です。北ドイツのリューベック・ハンブルク・ブレーメンといった都市では、木材や穀物などの生活必需品を輸入しました。ブリュージュなどを中心とするフランドル地方は、毛織物の原料になる羊毛の生産地として繁栄しました。

世界遺産
街

ブルージュ歴史地区

ベルギーの代表的な都市。中世には一大貿易拠点として繁栄した。街のいたるところに運河が通じており、「北のヴェネツィア」という異名をもつ。

内陸商業圏

地中海商業圏と北ヨーロッパ商業圏という2つの巨大な商業圏を結ぶ中継貿易で繁栄したのが内陸商業圏です。フランス北東部のシャンパーニュ地方や、ニュルンベルク・アウクスブルクといった都市が繁栄しました。


地図

中世西ヨーロッパの二大商業圏

このように、11~12世紀の西ヨーロッパは都市や商業が急速に発展した時代でした。このことを、「商業ルネサンス」と呼びます。「ルネサンス」とは「復活」の意味です。
POINT
商業ルネサンスまでの西ヨーロッパ世界は、荘園という閉ざされた世界での現物経済が主流でした。そこでは外部との交易も少なく、貨幣も価値を持ちませんでした

十字軍 まとめ

まとめ
  • 十字軍は、聖地イェルサレムをイスラーム勢力から奪うことを目的に、ローマ教皇が派遣した遠征軍のことである。
  • 当時の西ヨーロッパ世界は、人口増加などにより外へ拡大する動きを見せていた。
  • ビザンツ帝国の救援要請を受け、ローマ教皇ウルバヌス2世は十字軍の派遣を決定した。
  • 十字軍派遣は200年間にわたって行われたが、結局聖地イェルサレムを奪還することはできなかった。
  • 十字軍の影響でローマ教皇の権威は失墜し、軍を指揮した各国の国王は権力を高めた。
  • 十字軍によって東西交流が盛んになり、貿易が活性化した。その結果西ヨーロッパで商業都市が発展した。