ここまでの流れ
ペロポネソス戦争の長期化によってギリシアの各ポリスが疲弊する中、マケドニア王国のフィリッポス2世によってギリシア世界は統一されました。
アレクサンドロス大王が世界を駆けまわる
アレクサンドロス大王の東方遠征
暗殺されたフィリッポス2世に代わって、息子であるアレクサンドロス大王がマケドニアを率います。前336年、アレクサンドロス大王は東方遠征を開始しました。(ギリシア世界から見て東に向かって遠征するので東方遠征と呼びます)。
まずは父の遺志を果たすべくアケメネス朝ペルシアに勝負を挑み、イッソスの戦いとアルベラの戦いでペルシア軍に勝利しました。アレクサンドロス大王はたった4年で強国アケメネス朝ペルシアを滅亡にまで追いやったのです。
アレクサンドロス帝国の領土
アレクサンドロス帝国の支配
アレクサンドロス大王の東方遠征によって、ギリシア世界とオリエント(中東)世界が統一されました。異なる文化をもつ2つの世界をまとめるために、アレクサンドロスが工夫したことがこちらです。
各地にアレクサンドリア市を建設
遠征中に支配した各土地に、アレクサンドリアという名前の都市を建設していきました。その数70以上です。自分の名前をそのまま都市の名前にしてしまうことで、市民に「自分たちの王はアレクサンドロスなんだな。」と意識させました。
ペルシアの文化を継承
遠征中にアケメネス朝ペルシアを滅ぼしましたが、彼らの文化や慣習までは破壊しませんでした。アレクサンドロスは、自分の理想とする国造りを追い求め過ぎず、妥協するところは妥協していました。
コイネーの公用語化
コイネーというギリシア語を帝国内の公用語にしました。コイネーには「共通の」という意味があります。現代ギリシア語の基礎にもなっています。
アレクサンドロス帝国の分裂
アレクサンドロスの急死
前323年、アレクサンドロスは東方遠征から引き返す道中に急病を患い、32歳の若さで病死してしまいました。問題は、アレクサンドロスが自分の後継者を指名しないまま死んでしまったことです。
アレクサンドロス大王
帝国が3つに分裂
ディアドコイによる後継者争いの結果、帝国はアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトの3つに分裂してしまいました。
分裂後の三国
ヘレニズム時代 まとめ
- フィリッポス2世の子、アレクサンドロス大王は東方遠征を行い、エジプトからインド西部に至る大帝国を築いた。
- アレクサンドロス大王は征服地の各地にアレクサンドリアを征服し、コイネーを帝国の公用語にした。
- アレクサンドロス大王の死後、彼の部下であるディアドコイ(後継者)による争いが生まれ、帝国は3つに分裂した。
- ギリシア文化とオリエント文化が融合したこの時代をヘレニズム時代と呼ぶ。
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