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クシャーナ朝をわかりやすく解説

クシャーナ朝とは?

クシャーナ朝とは、1~3世紀頃にイラン系民族がインド北部に建てた王朝です。同時期にヨーロッパを支配していたローマ帝国との東西交易で栄えました。

クシャーナ朝はインドっぽくない?

前2世紀にマウリヤ朝が衰退して以降、インドは分裂の時代にありました。そこから300年ほど経った1世紀頃、北方からイラン系民族のクシャーン人がインダス川流域に侵入し、西北インドにクシャーナ朝をたてました。

位置を見てもらえれば、私たちがイメージするインドよりも北にありますね。これがクシャーナ朝のポイントです。

東西の交易拠点に

当時、五賢帝時代のローマ帝国と中国の後漢は貿易を行っていました。この東西の巨大国の交易路が、ちょうどクシャーナ朝を通過していました。北寄りに位置していたおかげで、クシャーナ朝は貿易拠点として栄えることができたのです。

ガンダーラ美術

東西との交流が活発になったことで、クシャーナ朝では異文化と混ざり合った美術が生まれました。それがガンダーラ美術です。これは、中国やギリシャ、ペルシャ(イラン)の様々な美術様式を取り入れた仏教美術です。クシャーナ朝の都であるプルシャプラを中心としたガンダーラ地方で始まりました。

仏像の起源

日本人にとっても馴染みの深い仏像は、クシャーナ朝の時代に初めて作られました。仏像の誕生は、ガンダーラ美術の最大の成果です。

顔
仏像にしては、やけに鼻筋が通ってますよね。このことからも、ガンダーラ美術がギリシア彫刻に影響を受けていたことが分かります。

カニシカ王

2世紀中頃のカニシカ王のときに、クシャーナ朝は最盛期を迎えました。

ローマを模倣

東西各国との交易によって、ローマから大量の貨幣がクシャーナ朝に入ってくるようになりました。カニシカ王をはじめとするクシャーナ朝の王は、ローマの貨幣を模倣して自国の金貨を鋳造しました。

貨幣
クシャーナ朝で使用された金貨の表面(写真の左側)には、王を取り巻くようにギリシア文字が記されています。さらには金貨の重量までローマのものと全く同じでした。

衰退へ

3世紀に入るとクシャーナ朝は弱体化し、イランのササン朝に制圧されてしまいます。
3世紀と言えば、交易のお得意先のローマ帝国も「3世紀の危機」という内乱期を迎えていました。ローマが内乱によって弱ってしまったことが、クシャーナ朝弱体化の要因の一つと考えられます。