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メソポタミア文明とは?
メソポタミア文明とは、紀元前3000年頃にティグリス川とユーフラテス川地域に栄えた文明です。エジプト文明、インダス文明、中国文明と並んで世界四大文明の1つに数えられています。またエジプト文明と共に、古代オリエント文明にも属します。
「メソポタミア」は地域の名前
「メソポタミア」はティグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域を指す言葉です。雨が少ないメソポタミアでは、河川の水を引いて農業を営みました。このように、河川や湖などから人工的に給水をする農業を灌漑農業と言います。農業ができる場所には人が集まりますから、次第にメソポタミアに文明が形成されていきました。
メソポタミアは侵入しやすい
- シュメール人が都市国家を各地に建設
- アッカド人が全メソポタミアを支配
- アムル人がバビロン第一王朝を建国
シュメール人
前2700年頃、メソポタミアにシュメール人が登場します。彼らはメソポタミア文明の基礎を作りました。
都市国家を形成
シュメール人は、メソポタミアに都市国家をいくつも作りました。都市国家というのは、「都市レベルの大きさの国」とイメージしてください。ウル、ウルクなどが代表的な都市国家です。
シュメール人の都市国家
ジッグラトで神々を祀る
現存するジッグラト
アッカド人
シュメール人たちはメソポタミアの各地に都市国家を作りました。それらを1つにまとめあげた民族が、アッカド人です。前24世紀頃、アッカド人はシュメール人を征服しました。
長続きせず
アッカド人は、メソポタミア全域を支配する広大な国家を樹立しました。
アッカド帝国の領土
アムル人
前22世紀頃にアッカド人は衰退し、続いてアムル人の登場です。
バビロン第一王朝
アムル人はバビロンという都市を都に、バビロン第一王朝(古バビロニア王国)をおこしました。そしてハンムラビ王の時代に、全メソポタミアを支配しました。
ハンムラビ法典
ハンムラビ王は、復讐法を原則にした法律であるハンムラビ法典を作りました。
ハンムラビ法典碑(ルーブル美術館蔵)
ヒッタイト人の侵入
ここで、メソポタミアの周辺地域に目を向けてみましょう。まずはヒッタイト人です。
小アジア(アナトリア高原)に建国
ヒッタイト人は、前17世紀頃に小アジアという地域に国家をつくりました。
小アジアの位置
鉄製の武器を使用
ヒッタイトは世界で初めて鉄製の武器を使用した民族です。それまでの人類は青銅器を武器として使用していましたが、武器としては青銅器よりも鉄の方が優れています。鉄による軍事力を身につけたヒッタイトは、南メソポタミアに侵入してバビロン第一王朝を滅ぼしました。
バビロン第一王朝滅亡後
バビロン第一王朝が滅亡した後、メソポタミア北部をミタンニ王国が、南部をカッシート人が支配しました。こうした民族並立の複雑な時代を経て、前7世紀にアッシリア王国によって、メソポタミア文明はエジプト文明と統合されました。
前15世紀頃
前7世紀頃
メソポタミアで生まれた技術
メソポタミア文明で発展した技術を見ていきましょう。
楔形文字
六十進法
六十進法は、60を1つの単位とする考え方です。
太陰暦
太陰暦とは、月の満ち欠けを基準にする暦です。太陰暦では1年が350日となります。
メソポタミア文明 まとめ
- ティグリス川とユーフラテス川の間におこった文明をメソポタミア文明という。
- シュメール人は楔形文字を発明し、多くの都市国家を形成した。
- アッカド人はメソポタミア初の統一国家を樹立したが、短命に終わった。
- アムル人はバビロン第一王朝をおこし、ハンムラビ法典で国内の秩序を保った。
- ヒッタイトは鉄製の武器を使用し、小アジアに強力な国家を建設した。
- バビロン第一王朝の滅亡後、メソポタミア北部はミタンニ王国、南部はカッシート人が支配した。
- アッシリア王国によってメソポタミア文明とエジプト文明は統一された。