明の全盛期を実現した永楽帝の死後、明に陰りが見え始まます。
ここまでの流れ
14世紀に建てられた明は、初代皇帝の洪武帝が皇帝集権化を進め、海禁政策で民間人の海外貿易を禁止しました。第3代皇帝の永楽帝の時代には、積極的に対外遠征が行われ、明は黄金期を迎えました。
北虜南倭
永楽帝の死後、明は外敵の侵入に苦しめられました。その外敵を北虜南倭(ほくりょなんわ)といいます。15~16世紀にかけて、明は北虜南倭に悩まされることになります。
オイラトはエセン=ハンという首長のもと、最盛期を迎えました。1449年には明の第6代皇帝の正統帝を捕虜にしました。この事件を土木の変といいます。
一方、タタールという民族も明を苦しめました。アルタン=ハンという指導者のもと、タタールは明に侵入し、都の北京を包囲しました。
明は14世紀の前期倭寇と、16世紀の後期倭寇に苦しめられました。
- 北虜:北のモンゴル系異民族の呼び名
- 南倭:中国南方沿岸部の海賊「倭寇(わこう)」のこと
北虜
まずは「北虜」について説明します。
明に侵入した北方モンゴル系民族として、オイラトとタタールがありました。
北虜の位置
一方、タタールという民族も明を苦しめました。アルタン=ハンという指導者のもと、タタールは明に侵入し、都の北京を包囲しました。
北虜の侵入に備えるため、明の歴代皇帝は万里の長城を改修・増築して、現在の姿になりました。
南倭
続いて「南倭」の説明です。上述のとおり、南倭とは「倭寇」のことです。
- 倭寇:13~16世紀に東アジアで活動した海賊。日本人が中心だった。
国際商業の活発化
周辺民族の侵入により国が弱体化して、そのまま滅亡…というのが世界史のお決まりパターンです。しかし、明は例外でした。北虜南倭に悩まされながらも、国はむしろ発展していったのです。
大航海時代の影響
いったん世界に目を向けてみましょう。16世紀当時、ヨーロッパでは大航海時代を迎えており、世界中の商人が貿易のために明を訪れていました。明は茶・絹・陶磁器などを交易品として輸出し、その見返りにヨーロッパからは大量の銀が入ってきました。
16世紀の明の貿易
税制度の改革
ヨーロッパから大量に銀が流入したことで、明では税金が銀で支払われるようになりました。
- 一条鞭法(いちじょうべんぽう):土地税と人頭税(国民に課せられる税金)を銀で納めることを定めた法律。16世紀後半以降に普及した。
貨幣経済が普及したことによって明の都市部は発展し、富裕層と呼ばれる人々も増えました。
衰退・滅亡
ここからは、明が滅亡するまでを見ていきましょう。
張居正の財政改革
明の晩年、第14代皇帝の万暦帝(ばんれきてい)の時代の話です。当時、北虜南倭に続いて周辺国との戦争によって軍事費が増加していたので、明の財政は苦しい状態でした。そこで張居正(ちょうきょせい)という政治家が財政再建改革を進めました。
張居正の改革の流れ
- 海禁政策を停止し、民間人の貿易を許可
- 倭寇が密貿易活動をやめる
- 倭寇対策の軍事費が減り、財政健全化!
派閥争い
しかし張居正の死後、東林派と非東林派による派閥争いが始まりました。
- 東林派:東林書院(学校)の関係者による科挙官僚集団
- 非東林派:宦官が政治の実権を握る
豊臣秀吉の襲来
さらに明を苦しめたのが、日本の豊臣秀吉の朝鮮侵攻でした。
明は朝鮮を助けるために援軍を送りました。明と朝鮮は朝貢関係にあるので、朝鮮の助けに応じないわけにはいかなかったのです。
POINT
日本との戦争による軍事費は、民衆への増税で賄いました。しかしその税も非東林派の宦官が独占してしまうという悪循環に陥っていきました。
李自成の乱
このような状況の中、明の各地で反乱が起こりました。その中でも明にとどめを刺した反乱が、李自成の乱です。1644年、李自成が農民を率いて明の都である北京を攻略し、明は滅亡しました。
まとめ
まとめ
- 永楽帝の死後、明は「北虜南倭」に苦しめられた。
- モンゴル系民族のオイラトは土木の変で明の正統帝を捕虜にし、タタールは一時北京を包囲した。
- ヨーロッパの大航海時代の影響を受けて明の貿易は活発化し、国外から大量に銀が流入した。
- 張居正の財政改革は成功したが、彼の死後は東林派と非東林派の争いで国内は混乱した。
- 日本の豊臣秀吉の朝鮮侵攻により明の軍事費がかさみ、財政が悪化した。
- 1644年、李自成の乱によって明は滅亡した。