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ナポレオン時代をわかりやすく解説

ナポレオン・ボナパルト

生い立ち

ナポレオンは、1769年にフランスのコルシカ島で生まれました。
15歳でフランス本土の陸軍学校に入学し、通常の在学期間が4年であるところをわずか11か月で卒業しました。

こぼれ話
陸軍学校時代、クラスで雪合戦をしたときにナポレオンがチームの指揮を執り、大勝に導いたという逸話があります。指揮官としてのナポレオンの優秀さを物語るエピソードです。

フランス革命を終わらせた男

ナポレオンが20歳の時にフランス革命が始まりました。革命の終盤、ナポレオンは軍事指導者として国外遠征で大活躍し、国民から熱狂的な支持を得ました。帰国後にはクーデタを起こして政府を倒し、新たに統領政府を立ち上げました。
※フランス革命について詳しくはこちらから。

統領政府

統領政府とは、3人の統領が運営する政治体制のことです。ナポレオンはその中で第一統領を務めました。「第一」なのでナポレオンが一番偉く、事実上の独裁権を手に入れたようなものでした。この時点でナポレオンはまだ30歳でしたが、実力で国のトップにまで登りつめたのです。

イギリスと和解

ナポレオンはまず国内の安定を確保するため、イギリスとの間に講和条約を結びました。この条約をアミアンの和約と言います。

アミアンの和約
アミアンの和約により、1793年の第一回対仏大同盟から両国の間に続いていた戦争状態が解消されました。

ナポレオン法典

ナポレオン法典
ナポレオンは民法典『ナポレオン法典』を公布しました。法の下の平等、信仰や労働の自由など、フランス革命の成果を定着させる内容でした。

国民の支持で皇帝に

1804年、ナポレオンは国民投票で圧倒的な支持を受け、皇帝に即位しました。これを持って、フランス革命で生まれた第一共和政が終わりました。共和政とは、「王のいない政治」を指す言葉ですからね。ここからはナポレオンによる軍事独裁体制である、第一帝政が始まります。

ナポレオンの戴冠式
これは『ナポレオンの戴冠式』という絵画です。画面中央右の立っている男がナポレオンです。冠を自身の頭に乗せる瞬間が描かれています。

ナポレオンのヨーロッパ大陸支配

第三回対仏大同盟

ナポレオンの皇帝即位に周辺国は警戒し、イギリスが中心となってオーストリアやロシアと第三回対仏大同盟を結成しました。

イギリス

ナポレオンの野郎、皇帝になりやがった!アミアンの和約は破棄だ!

トラファルガーの海戦

第三回対仏大同盟に対抗して、ナポレオンはイギリスに攻撃を仕掛けました。この戦いをトラファルガーの海戦といいます。しかしネルソン率いるイギリス海軍に完敗し、イギリス本土征服の野望は叶いませんでした。

アウステルリッツの戦い

トラファルガーの海戦ではイギリスに敗れたものの、ヨーロッパ大陸ではアウステルリッツの戦いでオーストリア軍・ロシア軍に完勝しました。そしてナポレオンは西南ドイツの諸国を支配下に置くために、ライン同盟を結成しました。このとき、ナポレオンの圧力によりドイツ諸国は全て神聖ローマ帝国を脱退したため、神聖ローマ帝国はここで消滅しました。

こぼれ話
戦争の終盤、ナポレオンは妻のジョゼフィーヌに「私はオーストリア・ロシア軍を叩きのめした。少しばかり疲れた…あなたを抱きしめたい」と書いた手紙を送ったそうです。

ティルジット条約

さらにナポレオンはロシア・プロイセン連合軍も破り、ティルジット条約を結ばせました。プロイセンから奪ったポーランド地方にはワルシャワ大公国を建国しました。

ナポレオン全盛
こうしてナポレオンは大陸支配の範囲を着実に広げていき、1810年頃にその権力は絶頂に達しました。

大陸封鎖令

こうしてヨーロッパ大陸を手中に収めていったナポレオンですが、憎きライバルのイギリスを倒せていません。トラファルガーの海戦では完敗を喫していましたね。そこでナポレオンは、ヨーロッパ大陸の諸国にイギリスとの貿易を禁じる大陸封鎖令を発しました。産業・経済面からイギリスを攻める作戦です。

ナポレオン

ヨーロッパの国々よ、イギリスとは貿易しないように。
大陸支配 まとめ
  • トラファルガーの海戦ではイギリス海軍に大敗した。
  • アウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア軍に勝利し、ライン同盟を結成した。
  • ティルジット条約では、ポーランドから奪った地域にワルシャワ大公国を建てた。
  • 大陸封鎖令を発し、ヨーロッパ大陸諸国にイギリスとの貿易を禁じた。

ナポレオンの失墜

ナポレオンへの反発

順調にヨーロッパ大陸支配を進めるナポレオンですが、支配を受けている諸国に反発心が芽生え始めました。ティルジット条約で自国の領地をフランスに奪われたプロイセンは、首相のシュタインハルデンベルクらによって、農奴解放・教育改革などの近代化政策がとられました。

スペインでもナポレオンへの反乱戦争が起こりました。ゴヤという画家の作品に『マドリード、1808年5月3日』という絵画がありますが、スペイン市民がフランス軍に殺されている場面が描かれています。

ロシア遠征

ロシアの裏切り

ナポレオンは大陸封鎖令を出してイギリスとの貿易を禁じていましたよね。当時のイギリスは産業革命の最中で、経済的にとても豊かな国です。そんなイギリスと貿易できないとなると、大陸側の諸国にとって大打撃なのです。
そんな中ついにロシアが大陸封鎖令を破って、イギリスと貿易を再開してしまいました。これに怒ったナポレオンがロシアに遠征を仕掛けました。

もう大陸封鎖令とか守ってられないわ。イギリスさん、また貿易しましょうよ。

ロシア

ナポレオン

やってくれるじゃないかロシア。叩きのめしてやる。

ロシア焦土作戦

この戦争で、ロシアは後退作戦をとりました。わざとナポレオン軍に適度に負けながら、ロシア内部へおびき寄せていったのです。そして冬の寒さが厳しくなると、ロシア軍はゲリラ攻撃を仕掛けました。この「寒波+カウンター攻撃」でナポレオン軍はみるみる兵力を失い、ナポレオンはロシアからの退却を決断しました。

ロシア退却を決めたナポレオン(画像中央)です。遠征開始時に61万人いたナポレオン軍の兵士は、最後には5000人にまで減ってしまいました。

ロシア遠征の影響

ロシアがフランスに勝利したことは、他のヨーロッパ大陸諸国を奮い立たせる刺激的なニュースでした。ここから、各国の反ナポレオンの動きが加速していきます。

ライプツィヒの戦い

ライプツィヒの戦いは、ナポレオン率いるフランス軍19万と、プロイセン・ロシア・オーストリア・スウェーデン連合軍36万による戦いでした。
圧倒的な兵力差の前にフランス軍は完敗し、退位に追い込まれたナポレオンはエルバ島へ流されました。

ワーテルローの戦い

無事ナポレオンを追い出したヨーロッパ大陸諸国は、戦後処理のために会議を行いましたが、各国の利害が一致せず会議が進みませんでした。そうこうしてるうちにナポレオンがエルバ島から脱出して再び皇帝の座に就いてしまいました。ヨーロッパ諸国は再びワーテルローの戦いでナポレオンを完全に打ち負かしました。

地図
戦いのあと、ナポレオンは南大西洋にポツンと浮かぶセントヘレナ島へ流され、その地で生涯を終えました。ナポレオンが島で暮らしていた邸宅は現在復元されており、観光スポットになっています。
ナポレオン失墜 まとめ
  • ナポレオン支配に対抗するため、プロイセンではシュタインらによって近代化政策がとられた。
  • 大陸封鎖令を破ったロシアに遠征したが、失敗した。
  • ライプツィヒの戦いでは大陸連合軍に完敗し、エルバ島へ流された。
  • パリ帰還後に再びワーテルローの戦いで負け、セントヘレナ島へ流された。