- ペルシア人(イラン人)の巨大帝国
- オリエント地方を統一した
- ペルシア戦争でギリシア勢力に敗戦
目次
アケメネス朝ペルシアとは?
「ペルシア」は、現在のイランを指す地名です。
イランの位置は大体この辺り。
ペルシャ猫はその名前の通り、イラン原産の猫です。
「アケメネス」とは、ペルシア王家の祖先の名前です。深い意味はないので、「そうなんだな~」ぐらいに思っておいてください。
アケメネス朝ペルシアの流れ
アケメネス朝ペルシア単体の大まかな流れがこちら。
建国者キュロス2世
史上初めてオリエントを統一したアッシリアが崩壊した後、オリエント世界はこのように4つの国に分かれていました。
もともとペルシア王国はメディアに従属していた小さな国でした。しかし前550年、ペルシア王キュロス2世が反乱を起こしてメディアを滅ぼします。これをもって、アケメネス朝ペルシアの開始です。キュロス2世は勢いそのままに、リディアと新バビロニアも征服してしまいます。
キュロス2世
カンビュセス2世
キュロス2世が征服しきれなかったエジプトを、後を継いだ息子のカンビュセス2世が征服しました。これにてオリエント世界の統一です。
ダレイオス1世
アケメネス朝の最盛期を実現したのがダレイオス1世です。
彼はさらなる領土拡大を目指し、すぐ隣のギリシアに攻め込みましたが、失敗に終わります(ペルシア戦争)。
アレクサンドロス大王の襲来
アケメネス朝ペルシアは、戦争の天才アレクサンドロス大王に滅ぼされてしまいます。
アレクサンドロス大王は、アケメネス朝ペルシアが成し得なかったオリエント世界とギリシア世界の統一を達成します。
統治方法
寛容な統治
ペルシアのオリエント統治方法をみてみましょう。なんせこれだけ広大な領土に、ペルシア人以外の民族も抱え込むわけです。
前7世紀にオリエントを統一したアッシリアは、軍事力で国民を押さえつけました。おかげで支配下民族の反乱を招いてしまい、統一後は短命に終わりました。
それに対して、アケメネス朝は支配下民族に対して寛容な政策を取りました。アッシリアとは対照的な統治ですね。
- 信仰する宗教は自由
- 支配下民族の文化・慣習には干渉しない。
- 使用する言語・文字も幅広く容認
ダレイオス1世
サトラップと王の目・王の耳
統治方法をもう少し具体的に見てみましょう。ペルシアの広大な領土を国王一人で統治することはできません。そこで、国を20の州に分割して、各州にサトラップという知事を配置しました。さらに「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官を各州に派遣し、サトラップがきちんと仕事をしているかを監視させたのです。
王の道を整備
帝国の統治のためには。広大な領土の隅から隅まで迅速に情報を伝達することが必要です。
そこでダレイオス1世は、小アジアのサルディスからスサを結ぶ「王の道」と呼ばれる道路網を整備しました。「王の道」のおかげで、それまで90日かかっていた行程を7日に短縮することができました。
「王の道」は約2400kmに及びます。日本の本州の先端同士の直線距離が約1200kmですから、その倍と考えるととてつもない長さですね。
ペルセポリス
またダレイオス1世の時代には、新たな都ペルセポリスの造営が始まりました。
ペルセポリス
ダレイオス1世が建設したアケメネス朝ペルシア帝国の都です。行政というよりは、儀式用の都として機能しました。前331年にアレクサンドロス大王によって破壊され、廃墟となりました。
アケメネス朝ペルシア まとめ
- アケメネス朝ペルシアとは、前6世紀にオリエントを統一した帝国である。
- もともとはメディアに従属していたが、キュロス2世のもと独立を果たした。
- 服属民族に寛容な統治を行い、サトラップや「王の目・王の耳」による中央集権体制を整えた。
- ダレイオス1世のもと最盛期を迎えたが、ペルシア戦争ではギリシア勢力に敗れた。
- 前330年、アレクサンドロス大王によって滅ぼされた。