- 16世紀にヨーロッパで起こった、カトリック教会に反発する運動のこと。
- 最初はドイツ、次にスイスで革命が始まって、西ヨーロッパ中に改革運動が広まった。
- カトリックから分離して新しい宗派が生まれて、キリスト教の分裂が進んだ。
宗教改革とは?
※カトリック…ローマ教皇を首長とする、キリスト教の主流宗派。当時西ヨーロッパで広く信仰されていた。
宗教改革の始まり
そもそもなぜ宗教改革が起こったのか、そこから解説します。
宗教改革はなぜ起こったか
- カトリック教会が贖宥状販売を進め、腐敗していた。
- ドイツの神学者ルターが、カトリック教会を批判した。
- ルターの主張がドイツ中に拡散され、大規模な革命運動に発展した。
カトリック教会の腐敗
当時のカトリック教会は財政難に陥っており、改築中のサン=ピエトロ大聖堂の建築費用が足りなくなってしまいました。教皇(カトリック教会のリーダー)のレオ10世の散財も財政難の原因です。
そこでレオ10世は、贖宥状(免罪符)の販売を許可しました。贖宥状とは、「これを買えば、死んだあと天国に行けるよ~」というお札です。この贖宥状を民衆に売りさばくことで、資金を確保しようとしたのです。
ドイツはカトリックのカモ
当時ドイツは、「ローマの牝牛」と言われていました。要するに、カトリック教会のカモであり金づるです。ドイツは政治的に不統一な国だったので、カトリック教会が好き勝手出来る環境だったのです。
そんなドイツは贖宥状販売のターゲットに定められ、民衆は好き放題に搾取されていました。
ルターの反論
こうして腐敗したカトリック教会に、疑問を投げかけた人物がいました。それがルターです。
ルターは、「福音主義」を唱えた人物でした。福音主義とは、「聖書の教えこそが信仰のよりどころである」という考え方で、教皇や教会の権威に否定的です。
九五カ条の論題
ある朝、ルターはヴィッテンベルク城内の教会の門扉に紙を張り出しました。そこには福音主義の思想や、カトリック教会の贖宥状販売を批判する内容が書かれていました。ルターの主張はドイツ中に広まり、カトリック教会に搾取されてきた諸侯や市民が支持しました。
国内への影響
ルターへの攻撃
当然ですが、教皇レオ10世はルターにご立腹です。レオ10世は、ルターに対してキリスト教会からの破門を言い渡しました。神聖ローマ皇帝のカール5世も、自説を撤回するようにルターを圧迫しました。
救世主の登場
命の危険が迫るルターを、ザクセン選帝侯フリードリヒという人物が救いました。彼は、自身の城内にルターをかくまったのです。ルターはそこで身を隠しながら、新約聖書のドイツ語翻訳に取り組み、聖書を一般のドイツ人でも読めるようにしたのです。その甲斐もあって、神聖ローマ帝国内にルターに賛同する者が増え始めていきました。
ついに皇帝が妥協!
その後ルター派による反乱戦争なども起こり、カール5世はルター派に妥協せざるを得なくなりました。カトリック派とルター派による帝国内の分裂を恐れたからです。
1555年に成立したアウクスブルクの和議をもって、諸侯がカトリック派とルター派のどっちを信じてもいいことになりました。しかしこのことがかえって諸侯同士の対立を生み、後の三十年戦争へと発展していきまいた。
広がる宗教改革
ルター派が浸透したのはせいぜいドイツ周辺まででした。しかしスイスで始まった改革運動は西ヨーロッパ各地に飛び火していきます。その経緯を解説します。
スイスの宗教改革
カルヴァンの予定説
カルヴァンは「予定説」を唱えました。予定説とは、「死んだら天国と地獄のどっちに行くかは、あらかじめ神がもう決めてるよ。生前に善行積んだりとか意味ないよ。」という考え方です。
仕事に励むべし!
あらかじめ決まってると言われても、当時の人々は自分が天国に行けるかどうか知りたくてたまりません。そこでカルヴァンは「神の与えた仕事(= 天職 )に励めば、お金が稼げるだろう。お金が稼げるということは、それが『神に選ばれし存在』であることの証明になる。」と説きました。要は、「仕事頑張って金稼げよ!」ってことです。
カルヴァンの思想は時代にマッチ
それまでのキリスト教の思想では、「お金を稼ぐこと・貯めること」は悪い行為だとされていました。しかしカルヴァンの教えは金稼ぎを肯定しており、西ヨーロッパの商工業者に広く支持されました。ちょうど大航海時代を迎え、商工業者が増えた当時の西ヨーロッパにマッチした教えだったのです。
西ヨーロッパ各地に広まった
カルヴァンの教えは、商工業がさかんな西ヨーロッパの各地域に広まっていきました。国によって、カルヴァン派の呼び方が違うので気を付けてください。名前は違えど、同じカルヴァン派です。
- イギリス:ピューリタン
- フランス:ユグノー
- オランダ:ゴイセン
イギリスの宗教改革
イギリスでも宗教改革が起こりましたが、主導したのは国王のヘンリ8世でした。ここがまずドイツやスイスの宗教改革と違う点です。
- ドイツ・スイスの宗教改革→一般市民が主導
- イギリスの宗教改革→国王が主導
離婚したさに宗教を起こした
ヘンリ8世は王妃(妻)と離婚したがっていました。自分の後継ぎとなる男の子が中々生まれず、女の子ばかり生まれたからです。しかし当時のカトリック教会では離婚が認められませんでした。そこでヘンリ8世は、カトリックとは別に新しくキリスト教を作って、そのリーダーに自分が就任することにしました。新たにできたこの宗教を、イギリス国教会といいます。
宗教の中身は後付け
後のエリザベス1世の時代には統一法が施行され、イギリス国教会の儀式や教義が整備されました。
カトリック教会の反撃
- トリエント公会議を開いて、「教皇はやっぱり偉いんだ!」を再確認
- イエズス会を結成して、世界中にカトリックを広める
トリエント公会議
まず、カトリック教会の教義を再確認するため、1545年から18年間に渡ってトリエント公会議が開かれました。公会議とは、「キリスト教に関する会議」のことです。
ここまでの宗教改革によって教皇権は否定されっぱなしでしたが、トリエント公会議においては「やっぱり教皇は偉いよね。」と再確認されました。
魔女狩り
イエズス会
イエズス会とは、カトリックを世界に広めることを目的とした組織です。イグナティウス=ロヨラとフランシスコ=ザビエルが中心となって結成されました。西ヨーロッパでは宗教改革のおかげで肩身が狭いので、まだキリスト教が浸透してないアジアなどで信者を増やそうとしたのです。
宗教改革の結果
宗教改革によって、ルター派やカルヴァン派、イギリス国教会という宗派が生まれましたよね。これらを総称してプロテスタントといいます。「protest」には「抗議」「反対運動」の意味があります。一方、東ヨーロッパのビザンツ帝国では、既にギリシア正教会がカトリック教会と対立して存在していました。
宗教改革によってプロテスタントが生まれて以降、キリスト教には大きく3つの宗派が存在することとなり、それは今日まで続いています。
キリスト教の分裂
宗教改革 まとめ
- 宗教改革とは、16世紀に西ヨーロッパで起こったキリスト教の改革運動のこと。
- 贖宥状販売などで腐敗したカトリック教会を、ルターは九五カ条の論題で批判した。
- スイスのカルヴァンは予定説を唱え、蓄財を奨励した。カルヴァン派はイングランドやフランスにまで伝わった。
- イングランド王のヘンリ8世は新たにイギリス国教会を設立した。後のエリザベス1世の時代、統一法で教義が整備された。
- 宗教改革で生まれた新教をプロテスタントと呼び、キリスト教はカトリック、プロテスタント、ギリシア正教の3つに分離した。