- 建国者:ヌルハチ
- 都:北京
- 領土:現代の中国とほぼ同じ
- 存続期間:1616~1912年
- 特徴①:女真族(満州人)による征服王朝。漢民族を巧みに支配した。
- 特徴②:征服戦争を繰り返し、中国史上最大の領土を形成した。
目次
清の建国期
清の建国の歴史を解説していきます。といっても、最初は「清」ではなく「金」という名前でした。まずはその金の成立から見ていきましょう。
ヌルハチが女真族を率いて建国
1616年、ヌルハチという人物が女真族を統一して「金」を建国しました。女真族は、中国東北部を拠点とする民族です。
後金が建国された時の領域
八旗の編成
ヌルハチは軍の整備に注力しました。軍隊を8つに分け、それぞれに色違いの旗を持たせます。こうすることで、色ごとに命令を出してスムーズに戦いを進めることができたのです。この8つの軍団を八旗といいます。
八旗
ホンタイジが「清」に改名
1636年、2代目皇帝のホンタイジは国号を「清」に変えました。「金」は南宋の時代に中国北部を奪った国名です。中国に進出する際に漢民族が支配を受け入れやすくするために「清」に改名したのです。
ホンタイジ
順治帝が中国に侵入
いよいよ清が中国内部へ侵入を試みますが、中国北部には万里の長城があるので、簡単には侵入できません。しかし17世紀前半に李自成の乱が発生し、明は大混乱に陥りました。清の第3代皇帝の順治帝は、このチャンスを逃しませんでした。かつて明の武将だった呉三桂(ごさんけい)を味方につけ、彼の協力で万里の長城を突破して中国本土へ侵入に成功しました。そして明を滅ぼした李自成を倒し、北京を新しい都として中国全土を支配しました。
清の北京入城
髪型が征服の証
康熙帝
- 人物:清の第4代皇帝
- 在位:1661~1722年
- 功績・政策:三藩の乱を鎮めて清の中国支配の基盤を固めた。
- 逸話:狩猟を嗜み、生涯で虎135頭を倒した。
満州人による支配を確立
繰り返しになりますが、清は満州人(女真族)による国家です。いずれ漢民族から反抗されることを見越して、康熙帝は藩王の勢力を削減しました。
- 藩王:清に協力した漢民族の武将のこと。順治帝の中国侵入に協力した呉三桂などが、これに該当する。
税制改革で人口増加
康熙帝の政策として、明代からの税制度である一条鞭法に代わって、地丁銀制を実施したことも重要です。地丁銀制をざっくり言うと、人頭税を事実上廃止した制度です。人が増えても税金が取られなくなったので人々はたくさん子供を生むようになり、清では人口が増加しました。
ロシアとも有利な条約を結んだ。
外交の面でも康熙帝は力を発揮しました。当時ロシア帝国の探検隊が清の北東部のアルグン川を越えて、たびたび清の内部に入り込んでいました。康熙帝はロシアの侵入を食い止めるため交渉を開始し、ロシアと清の国境をアルグン川・スタノヴォイ山脈とする条約を結びました。これをネルチンスク条約と言います。
ネルチンスク条約で定められた国境線
雍正帝
- 人物:清の第5代皇帝
- 在位:1722~1735年
- 功績・政策:軍機処を設置し、軍事における意思決定を迅速にした。
- 逸話:勤勉な性格で、朝4時から夜12時まで仕事をした。
軍機処を設置
雍正帝は、軍機処と呼ばれる皇帝の補佐機関を設置しました。目的は、軍事における意思決定をスピーディにするためです。
文字の獄
乾隆帝
- 人物:清の第6代皇帝
- 在位:1735~1795年
- 功績・政策:ジュンガルを併合し、清の最大領域を実現した。
- 逸話:祖父の康熙帝を尊敬しており、彼より1年短い60年間で皇帝を退位した。
清の最大領域を実現
乾隆帝はジュンガルという民族を滅ぼし、清に併合しました。康熙帝や雍正帝もジュンガルを攻撃していましたが、乾隆帝の時代にやっと倒すことができたのです。併合後、ジュンガルが暮らしていた東トルキスタン一帯の地域は新疆(しんきょう)「=新しい領土という意味」と呼ばれました。
このように乾隆帝は積極的に戦争を行い、清の領土を広げました。
黄金期の終わり
乾隆帝の時代の後半になってくると、ここまで絶好調だった清に陰りが見え始めます。国内の人口増加と乾隆帝の遠征によって、清の財政が苦しくなってきたのです。
清 まとめ
- ヌルハチが女真族(満州人)を統一して金を建国し、ホンタイジによって「清」に改名された。
- 明を滅ぼした李自成は呉三桂が引き込んだ清に敗れ、清による中国支配が始まった。鄭成功は台湾から清に対抗した。
- 辮髪や文字の獄といった政策で、漢民族や清に反抗する思想は厳しく取り締まられた。
- 康熙帝、雍正帝、乾隆帝の時代に清は黄金期を迎え、中国史上最大の領土を形成した。