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ローマ帝国をわかりやすく解説

ローマ帝国と聞くと、映画や本で一度は見聞きしたことがあるだろう。でも、どんな歴史があったのかを知らない人も多いと思う。ローマ帝国は、紀元前27年から西暦476年まで続いた巨大な帝国だ。
ローマ帝国は、現在のイタリアを中心に、ヨーロッパ、アフリカ、アジアにまたがる広大な領土を持っていた。

共和政ローマの成立と政治

ローマ帝国ってよく聞くけど、どうやって始まったんですか?
ローマ帝国を説明する前に、まずは共和政ローマから説明する必要があるね。ローマはもともと王政だったんだけど、紀元前509年に最後の王様が追放されてから、共和政が始まったんだ。今から約2500年前の話だね。

ローマ帝国建国までの歴史
紀元前509年 ローマ共和政成立
紀元前494年 聖山事件(プレブスのストライキ)
紀元前287年 ホルテンシウス法制定(プレブスの権利拡大)
紀元前264年 第一次ポエニ戦争開始
紀元前146年 第三次ポエニ戦争終結(カルタゴ滅亡)
紀元前133年 グラックス兄弟の改革開始
紀元前73年 スパルタクスの反乱開始
紀元前60年 第一回三頭政治開始
紀元前44年 カエサル暗殺
紀元前27年 アウグストゥスが初代ローマ皇帝に就任(ローマ帝国成立)
共和政ローマの政治の中心には元老院があり、ここで重要な決定がなされていたんだ。元老院は主に貴族階級のパトリキで構成されていたんだけど、平民階級のプレブスも徐々に政治に参加するようになったんだ。

執政官という重要な役職もあって、これは毎年2人選ばれ、軍事や行政の最高責任者としてローマを統治していたんだ。執政官は元老院の決定を実行する役割を持っていて、任期が1年と短いことで権力の集中を防いでいたんだよ。

クリア・ユリア – 現存する元老院議事堂

パトリキとプレブスって、仲良くしてたんでしょうか?階級闘争みたいなのがありそうなイメージ…
いい指摘だね。仲が良かったとは言い難い。初期の共和政ではパトリキが政治を独占していたからね。そんな中、プレブスは自分たちの権利を求めて闘ったんだ。

その結果、紀元前494年にプレブスがストライキを起こし、彼らの権利が認められるようになったんだ。この出来事は、プレブスが集結した丘の名前をとって聖山事件と呼ばれているよ。

すごいことですね。どんな権利が認められたんですか?
一つの重要な成果は、プレブスが自分たちの代表として護民官を選ぶことができるようになったことだね。護民官は、元老院や執政官の決定に対して拒否権を持っていたんだ。

また、プレブスも執政官になれるようになり、徐々に政治における平等が実現されていったんだよ。

地中海征服とその影響

共和政ローマは、戦争によってどんどん領土を広げていった。

例えば、紀元前264年から146年にかけてのポエニ戦争では、ローマはカルタゴという強大な都市国家と三度にわたる戦争をした。ローマはこのポエニ戦争に勝利し、地中海西部の覇権を握ることになったんだ。

ポエニ戦争時の地中海周辺

ポエニ戦争時の地中海周辺

ポエニ戦争で勝った後、ローマはどうなったんですか?
戦争の結果、ローマは多くの土地と富を手に入れたんだけど、同時に多くの問題も抱えることになったんだ。

例えば、戦争で得た土地をつかってラティフンディアと呼ばれる大規模な農業経営が始まったんだけど、これが中小農民の生活を圧迫することになった。

なぜラティフンディアが中小農民を圧迫するんでしょうか?因果関係が知りたいです。
ラティフンディアは、戦争捕虜である奴隷を大量に使って農業を行ったんだ。このため、生産コストが低く、安価な農産物を大量に市場に供給することができたんだ。

それに対して、中小農民は自分たちの家族や少数の労働者だけで農業を営んでいたから、ラティフンディアの低価格には太刀打ちできなかったんだ

その結果、多くの中小農民は経済的に困窮して土地を手放すことになり、都市に流れ込むか、ラティフンディアで働くしかなくなってしまった。

これが社会的な不安定要因の一つとなり、後の内乱の一因となったんだ。

内乱の1世紀

内乱って、どんな感じだったんでしょうか?
内乱の1世紀(紀元前133年~紀元前27年)は、ローマ史の中でも特に混乱した時期だったんだ。この時期には、グラックス兄弟の改革や、スパルタクスの反乱、そしてカエサルの台頭と暗殺など、多くの劇的な出来事があったんだよ。

グラックス兄弟?
グラックス兄弟はローマの政治家で、平民の権利を拡大するための改革を試みたんだ。

兄のティベリウス・グラックスは紀元前133年に土地改革を行おうとしたけど、元老院の反発を受けて暗殺されたんだ。弟のガイウス・グラックスも同様に改革を試みたけど、彼も同じく反対派によって殺されてしまった。

平民の味方が…悲しいですね。他にはどんな出来事があったんですか?
スパルタクスの反乱も有名だね。彼は奴隷出身の剣闘士で、紀元前73年から71年にかけて大規模な奴隷反乱を起こしたんだ。最終的には鎮圧されたけど、多くの人々に衝撃を与えたんだ。

そして、軍事の天才カエサルが登場する。彼はガリア戦争で大成功を収めて人気を博したんだけど、その影響力を恐れた元老院によって暗殺されてしまったんだ。

カリスマの台頭を許さない伝統組織。なんだか現代にもありそうな話ですね。
しかし、カエサルの死後に後継者オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)が登場し、最終的にローマ帝国を築くことになるんだ。

なるほど。ローマはもともと共和政で、混乱を経て帝政に移行したんですね。

ローマ帝国の成立とパクス・ロマーナ

オクタウィアヌスは、カエサルの後継者として内乱を収束させ、紀元前27年に初代ローマ皇帝アウグストゥスとなった。彼は元首政と呼ばれる新しい政治体制を導入し、実質的に全権を握ったんだ。

アウグストゥス

アウグストゥスの大理石像

そしてアウグストゥス以降、ローマは「パクス・ロマーナ」と呼ばれる200年間の平和と繁栄の時代を迎えた。

200年も繁栄が続くなんてすごいですね。
そうだね。アウグストゥスの後には、五賢帝と呼ばれる優れた皇帝たちが続き、彼らもまたローマの平和と繁栄を維持したんだ。

例えば、トラヤヌス帝は領土を最大に広げ、ハドリアヌス帝は防衛に力を入れた。また、アントニウス・ピウスとマルクス・アウレリウスは内政を安定させ、多くの人々にローマ市民権を与えたんだ。

トラヤヌス帝時代のローマ帝国の領域

めちゃくちゃデカい…まさに帝国って感じですね。

3世紀の危機

でも、そんな「パクス・ロマーナ」も永遠ではなかったんですね。その後はどうなったんですか?
3世紀になると、ローマは深刻な危機に直面するんだ。外敵の侵入や内乱、経済の混乱などが重なり、「3世紀の危機」と呼ばれる時期が訪れた。

この時期には、50年間で18人もの皇帝が入れ替わる軍人皇帝時代という不安定な状況が続いたんだよ

2.3年に1回皇帝が変わるペースですね。そんな大変な時期があったんですね。どうやって乗り越えたんでしょうか?
ディオクレティアヌスという皇帝が登場して、彼は「四帝分治制」を導入したんだ。これは、帝国を4つの地域に分け、それぞれに皇帝を置くことで統治を効率化しようという試みだ。

また、彼はコロナトゥスという新しい農業制度を導入して、経済を安定させようとしたんだ。これによって、しばらくの間は安定を取り戻したんだよ。

コロナトゥスとは何でしょうか?
簡単に言うと、大土地所有者が小作農(コロヌス)に土地を貸し出し、その代わりに収穫物の一部を納めさせる制度だね。

この制度は、奴隷制に代わる労働力として機能したんだ。コロヌスたちは自由な身分ではあったけど、土地に縛られ、事実上の半奴隷状態に置かれていたんだ。

コロナトゥスの導入は、経済の安定化と土地の効率的な利用を図るためだったけど、後に封建制の基盤にもなったんだよ。

ローマ帝国の分裂

なんとか3世紀の危機を乗り越えて、ローマ帝国はどうなったんですか?
ディオクレティアヌス帝を引き継ぐ形でコンスタンティヌス帝が登場する。彼は、ローマ帝国の再建と安定化を目指して様々な改革を行ったんだ。

コンスタンティヌス帝は、帝国の統治を効率化するために、首都をローマからビザンティウムに移して、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に改名した。

これにより、東方の防衛が強化され、貿易の拠点としても重要な役割を果たすようになったんだ。

ローマとコンスタンティノープルの位置

それで、ローマ帝国は安定したんでしょうか?
一時的には安定したけど、根本的な問題は解決されなかったんだ。コンスタンティヌス帝の死後、帝国は再び分裂の危機に直面したんだ。

特に、ゲルマン人の大移動が大きな影響を与えたんだよ。

ゲルマン人の大移動とは?
ゲルマン人の大移動は、4世紀から5世紀にかけてヨーロッパ各地で起こった、大規模な人口移動のことだね。

ゲルマン人は様々な部族に分かれていて、それぞれが異なる理由でローマ帝国の領土に移動してきたんだ。主な原因は、フン族という遊牧民の圧迫を受けて、ゲルマン人が西に移動せざるを得なくなったことだよ。

ゲルマン人の大移動が、ローマ帝国にどう影響したんですか?
ゲルマン人は帝国内に侵入し、各地で戦闘が発生した。

例えば、ゲルマン人の一部であるゴート族は、378年のアドリアノープルの戦いでローマ軍を大敗させたんだ。これが決定的な打撃となり、帝国の防衛体制が崩壊してしまったんだ。

ディオクレティアヌス帝やコンスタンティヌス帝の後も、帝国は厳しい状況にあったんですね。
そうだね。特に、テオドシウス帝が395年に死去した後、ローマ帝国は東西に完全に分裂したんだ。分裂後の西ローマ帝国もゲルマン人の圧力に耐えられなくなり、476年についに滅亡した。

一方、東ローマ帝国はそこから1000年以上ビザンツ帝国として存続したよ

ローマ帝国の東西分裂後の姿

ローマ帝国の成立から東西分裂までの歴史
紀元前27年 アウグストゥスが初代ローマ皇帝に就任(ローマ帝国成立)
96年~180年 五賢帝時代
212年 カラカラ帝によるローマ市民権の拡大
235年~284年 軍人皇帝時代
284年 ディオクレティアヌス帝による四帝分治制の導入
313年 コンスタンティヌス帝のミラノ勅令(キリスト教の公認)
330年 コンスタンティノープルへの遷都
375年 ゲルマン人の大移動開始
395年 テオドシウス帝の死去によりローマ帝国が東西に分裂

キリスト教の迫害から国教化

キリスト教にも触れておこう。キリスト教は、紀元1世紀のユダヤ教の一派として始まったんだ。

キリスト教の中心人物はご存知イエス・キリスト。彼はローマ支配下のパレスチナという地で生まれ育った。

イエスは神の愛と隣人愛を説いたんだけど、その教えは当時のユダヤ教の伝統的な教えとは異なっていた。

キリスト教はもともとユダヤ教の一部だったということですね。イエスはその後どうなったんでしょうか?
イエスはユダヤの宗教指導者たちによって危険視され、反逆者として告発されたんだ。彼はローマ総督ピラトの命令で十字架にかけられ、処刑された。

でも彼の死後、弟子たちはイエスが復活したと信じ、そのメッセージを広めるために活動を始めたんだ。

弟子たちはどうやってイエスの教えを広めたんですか?
イエスの弟子たちは使徒と呼ばれ、その中でも特に有名なのがペトロとパウロだね。

ペトロはイエスの最も近しい弟子の一人で、初代ローマ教皇とされているよ。。

パウロは地中海世界を旅しながら、異邦人(非ユダヤ人)にもイエスの教えを広めることに尽力したんだよ。彼の手紙は新約聖書の一部として現在も読まれているんだ。

現代の欧米圏の名前でよく聞く「ピーター」はペテロから、「ポール」はパウロから来ているんだ。いかに影響力が強いかが分かるね。

ポール・マッカートニー

ローマ帝国の中では、キリスト教はどういう扱いだったんでしょうか?
初期のキリスト教徒はローマ帝国の中で少数派であり、時には迫害を受けたんだ。特にネロ帝の時代には大規模な迫害を受け、多くのキリスト教徒が殉教者となった。

64年に起きたローマ大火。
ネロ帝は、火災の犯人をキリスト教徒だと断定し、処刑した。

しかし、キリスト教徒の信仰は衰えることなく、むしろ迫害を通じてさらに強固なものとなっていったんだ。

それだけ迫害を受けながら、どうしてキリスト教は広まったんですか?
キリスト教は、その普遍的なメッセージや信者同士の強い絆、そして使徒たちの熱心な伝道活動によって広まっていったんだ。

また、ローマ帝国内の通信網や交通手段が整っていたことも、教えの拡散に役立った。

4世紀になると、コンスタンティヌス帝がミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認したんだ。

ついにキリスト教を認めたんですね。なにか理由があったんでしょうか?
上で説明したように、当時のローマ帝国は不安定な状態にあったんだ。その中でキリスト教徒は増え続けており、彼らを敵対視するよりも取り込む方が統治の安定に繋がると考えたからだよ。

なるほど。政治的な理由とはいえ、晴れてキリスト教徒は公然と信仰することができたわけですね。
それまでみたいに、コソコソ信仰を守る必要もなくなったわけだ。

そして392年にはテオドシウス帝がキリスト教を国教と定め、ローマ帝国内での他の宗教の信仰を禁止したんだ。

最初は迫害されていたキリスト教が、信仰を強制されるほどの存在に…すごい成り上がりですね。
そうだね。キリスト教はその始まりから多くの困難に直面しながらも、イエスの教えと信者たちの努力によって広がりを見せたんだ。

ローマ帝国におけるキリスト教の歩み
紀元1世紀 イエス・キリストの教えが広がり、使徒たちが伝道を開始
64年 ネロ帝による迫害
303年 ディオクレティアヌス帝による大迫害
313年 コンスタンティヌス帝がミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認
325年 ニケーア公会議が開催され、正統教義が決議される
380年 テオドシウス1世がキリスト教をローマ帝国の国教とする

ローマの生活と文化

ローマの市民は非常に多様な生活を送っていたんだ。

裕福な市民は大きな邸宅に住み、奴隷を使って豪華な生活をしていたんだ。一方、下層~中流市民はインスラと呼ばれる共同住宅に住んでいた。今でいうアパートみたいなものだね。

インスラ

インスラ

どの時代にも格差というのはあるものですね。
そうだね。でも、奴隷を除く市民は皆、娯楽を楽しんでいたんだ。テルマエや闘技場なんかが典型的だね。

テルマエ?そういえば、テルマエ・ロマエって映画がありましたよね。
阿部寛さん主演の映画だね。僕も何度も見たよ。

テルマエ・ロマエ(2012年)

テルマエとは公衆浴場のことだ。ローマの人々にとって、テルマエは単なる入浴の場ではなく、社交やリラクゼーションの場としても重要だったんだ。

テルマエには温かいお湯の浴場(カルダリウム)、冷たいお湯の浴場(フリギダリウム)、そして中程度の温度のお湯の浴場(テピダリウム)があって、そこで友人と会話を楽しんだそうだ。

現代の銭湯と似たようなものがあったんですね。闘技場というのは?
闘技場では、剣闘士の戦いや動物同士の戦い、さらには海戦を再現するイベントなど、様々な見世物が行われたんだ。

中でもコロッセウムはローマで最も有名な闘技場で、紀元80年に完成したんだ。約5万人を収容できる巨大な構造で、ローマ市民の娯楽の中心だったんだよ。

イタリア旅行といえば、コロッセウムは外せないですよね。いつか見てみたいなぁ。
コロッセウム

コロッセウム

最後に紹介したいのがパンテオンだ。パンテオンは、古代ローマの神殿の一つで、紀元118年から125年の間に建設されたんだ。

特に有名なのは、その巨大なドームと中央に開いたオクルスと呼ばれる天窓だね。パンテオンは「すべての神々の神殿」という意味で、キリスト教が広まる以前のローマの多神教の神々を祀るための場所だったんだ。

この建物は非常に優れた建築技術の証で、現在でもほぼ完全な形で残っているんだよ。

パンテオン

コロッセウムといいパンテオンといい、ローマの建築技術って本当にすごいんですね。
そうだね。ローマの建築技術は、その後の西洋建築に大きな影響を与えたんだ。

また、ローマの道路網や水道橋などのインフラも非常に発達していて、これがローマの都市生活を支えていたんだよ。

水道橋

ポン・デュ・ガール(西暦50年ごろに建設された水道橋)

ローマ帝国 まとめ

まとめ
  • 紀元前753年にローマが建国され、最初は王政が行われたが、紀元前509年に共和政へと移行した。
  • 共和政では元老院が政治の中心となり、パトリキとプレブスがそれぞれの立場から政治に関与するようになった。
  • ローマは地中海征服で領土を大きく拡大したが、ラティフンディアが中小農民の生活を圧迫した。
  • 共和政末期の内乱の1世紀を経て、アウグストゥスがローマ帝国を築いた。ここから、パクス・ロマーナと呼ばれる平和と繁栄の時代が続いた。
  • 3世紀の危機の後、ローマ帝国は東西に分裂し、まもなく西ローマ帝国は滅亡した。