カノッサの屈辱とは?
カノッサの屈辱(1077)とは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世がローマ教皇グレゴリウス7世にカノッサ城門で謝罪した事件のことです。
当時の西ヨーロッパ世界における教皇権の強さを象徴する事件です。
- 神聖ローマ帝国:962年に成立した、ドイツ王を中心とする複合国家
- ローマ教皇:キリスト教ローマ=カトリック教会のリーダー
- 破門:キリスト教世界から追放すること
カノッサの屈辱までの経緯
叙任権闘争
962年の建国以来、歴代の神聖ローマ皇帝は聖職叙任権を所有していました。聖職叙任権とは、聖職者(キリスト教関係の仕事をする人)を任命する権利のことです。
ところが、皇帝が聖職叙任権を所有することには弊害もありました。たとえば、世俗権力が教会内に入り込んだおかげで、聖職者の地位をお金で取引する聖職売買が行われたりしました。
そこで、堕落したローマ=カトリック教会を引き締めるために、教皇グレゴリウス7世は改革に乗り出します。皇帝に握られている聖職叙任権を、取り返すことにしたのです。
こうして、皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世の間で叙任権闘争が始まりました。
教皇の破門攻撃
ハインリヒ4世は教会の改革運動に反発したため、ついにグレゴリウス7世は、ハインリヒ4世に破門を言い渡しました。破門とは、キリスト教世界からの追放を意味します。
これにはハインリヒ4世も大ダメージです。みんなキリスト教を信仰している西ヨーロッパ世界から、皇帝である自分が追放されるわけにはいきません。自分の言うことを聞いてくれなくなってしまいます。
さすがに諦めたハインリヒ4世は、グレゴリウス7世が滞在するカノッサ城に向かい、謝罪することにしました。グレゴリウス7世には面会を拒否されましたが、雪の降る中3日間に渡り謝罪し続け、ようやく破門を解いてもらったのでした。
ハインリヒ4世
グレゴリウス7世
カノッサの屈辱の意義
カノッサの屈辱は、教皇が皇帝よりも強い力をもつことが示された象徴的な事件でした。1122年のヴォルムス協約では両者の妥協が成立し、叙任権闘争は終結しています。
ローマ=カトリック教会の権力はますます上昇し、13世紀の教皇インノケンティウス3世のときに絶頂に達しました。
カノッサの屈辱 まとめ
- カノッサの屈辱とは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世がローマ教皇グレゴリウス7世にカノッサ城門で謝罪した事件のことである。
- 聖職叙任権を巡って、ハインリヒ4世とグレゴリウス7世は対立した。
- ハインリヒ4世は、破門を解いてもらう代わりに聖職叙任権を放棄した。
- カノッサの屈辱は、中世西ヨーロッパ世界におけるローマ=カトリック教会の権威を象徴する事件である。