中国史年表 | |
王朝 | 年代 |
夏 | 前2070年~前1600年ごろ |
殷 | 前1600年~前11世紀ごろ |
西周 | 前11世紀ごろ~前771年ごろ |
東周(春秋・戦国時代) | 前770年~前256年 |
秦 | 前221年~前206年 |
漢 | 前202年~後220年 |
魏晋南北朝 | 221年~581年 |
隋 | 581年~618年 |
唐 | 618年~907年 |
宋 | 960年~1297年 |
元 | 1271年~1368年 |
明 | 1368年~1644年 |
清 | 1644年~1912年 |
中華民国 | 1912年~1949年 |
中華人民共和国 | 1949年~現在 |
目次
漢字、漢文の由来
中国を初めて統一した秦王朝は、たったの15年で滅亡してしまいました。そんな秦の後に続いた漢王朝は、400年もの間存続したことで「漢〇〇」=中国、というイメージを定着させました。
400年続いたとはいえ、漢は途中で一度滅亡しています。そのため、滅亡前を前漢、復活後を後漢といいます。
今回は前漢を解説していきます。
建国の歴史
漢の建国に至るまでの歴史を解説します。
陳勝・呉広の乱
秦王朝では、創始者である始皇帝の死後、陳勝・呉広の乱(前209年)が起こりました。
陳勝と呉広は人物名です。彼らは二人とも、辺境の警備に就くよう任命された、名もなき貧民でした。
ところが、警備に赴く道中、大雨のせいで期日までに辿り着くことが困難になりました。当時の秦のルールでは、遅刻=死刑です。
この状況で陳勝と呉広は、「どうせ死刑になるなら、デカいことやって死んでやろうぜ!」と開き直ります。他の仲間たちにも呼びかけ、秦への反乱を開始しました。これが陳勝・呉広の乱です。
「陳勝と呉広ってやつらが暴れてるらしいぞ」という噂は中国各地に広まり、触発された農民たちが「俺も俺も」といったかたちで秦への反乱戦争を起こしました。こうなると秦は弱体化する一方です。
そんな混乱期の中、劉邦と項羽という2人の人物が頭角を現してきます。
劉邦 vs 項羽
劉邦は貧しい庶民出身です。酒好きで仕事は不真面目、なのに人望があるおかげで県令(県知事のような役職)にまで上り詰めたような男です。
一方、項羽は代々楚の将軍を務めた名家出身です。身長も188㎝とかなり大柄な男です。
劉邦と項羽はともに、項梁という人物(項羽の叔父にあたる)の指揮下で反秦活動をおこなっていました。
項梁は反秦活動の中で、かつての戦国時代に秦に滅ぼされた楚を復国させていました。
そんなある日、楚の王が劉邦や項羽含む将軍たちにこう約束します。「先に関中(秦の中心地)に入ることができた者を、その地の王としよう。」
この早い者勝ちレース、優勝者は劉邦でした。関中入りを果たした劉邦はそのまま秦を滅亡させています(前206年)。
ところが、劉邦が先に関中入りしたことを聞いた項羽は大激怒します。そして関中を攻め込み、あと一歩で劉邦を殺害するところまでいきましたが、後日宴会の場を開かれ2人は和解しました。
その後、項羽は王を自称し、秦滅亡に貢献した武将たちに領地を分配しました。劉邦には漢中という地方を与え、漢王としました。
ところがこの領地分配の基準も項羽の好き嫌いによるところが大きく、次々と反乱が起きるようになります。
そして劉邦と項羽の直接対決にいたります(楚漢戦争)。
この戦争の序盤は項羽が圧倒するものの、最後には劉邦が勝利しました。
追い詰められた項羽は死ぬ間際、追っ手の中に古い知り合いがいるのを見つけると、「手柄をくれてやろう」と言い残し、自らの首を切り落とし絶命したといいます。
初代皇帝 高祖
項羽との戦いに勝利した劉邦は漢王朝を建て、皇帝に即位します。これ以降の劉邦は、高祖という名で呼ばれます。王朝の建国者である劉邦の業績を称えて、「祖」の字が使われています。
高祖は、地方統治制度として郡国制を採用しました。郡国制は、周の封建制と秦の郡県制を混ぜ合わせた制度です。
都の長安周辺は皇帝直轄地で(郡県制)、地方は皇帝の家臣たちが王となって治めます(封建制)。
家臣たちとの宴会中、高祖は「私が項羽に勝てた理由は、有能な部下を上手く使いこなしたからだ。項羽はそこが足りなかった。」と語ったことがあります。このエピソードからも分かるように、高祖は家臣を厚く信頼していたのです。
混乱から安定期へ
呂后 ~中国三大悪女~
高祖の死後、2代目皇帝となったのは恵帝です。高祖の実の息子ですが、温厚で気弱な性格から、高祖にはあまり好かれていなかったそうです。
そんな恵帝の時代に実権を握ったのは、中国三大悪女の一人、恵帝の母の呂后です。
呂后は高祖の血を引く者を次々と粛清し、自分の親族を政府の要職にねじ込もうとしました。
恵帝は母の残虐な行為に衝撃を受け酒に溺れ、23歳でこの世を去っています。
呂后のこんな自分勝手な政治が長続きするわけもなく、クーデターが起きて呂氏一族は皆殺しにされました。
文景の治
呂后による混乱が収まり、新たに皇帝に即位したのが文帝です。
秦末期から漢建国にかけての戦乱期を経て、一般庶民の多くは仕事を失っていました。文帝は農業を重視し、また減税や国からの援助で民衆の生活を向上させました。その一方で自らは質素な生活を送ったといいます。
文帝の後を継いだ息子の景帝も、文帝の政策を引き継ぎました。この頃には国民の9割が農業に従事していたといいます。
漢の国力を回復させた文帝・景帝の統治期間(前180年~前141年)は、「文景の治」と称えられています。
呉楚七国の乱
景帝の時代に、呉楚七国の乱(前154年)という諸侯による反乱戦争が起こりました。
諸侯とは国内の各地方を統治する王のことで、「呉」や「楚」といった7つの国が反乱を起こしたので、この名前が付きました。
なぜ呉楚七国の乱が起こったのか
景帝の時代、諸侯は中央政府の命令を聞かなくなってきていました。一方で景帝も、漢の国力を回復させてきた自負がありますから(文景の治)、自分勝手な諸侯をうっとうしく思うようになっていました。
そこで景帝は、諸侯の領地削減に取り組みます。
先ほど説明したように、漢の地方統治制度である郡国制では、皇帝の直轄地と諸侯の領地に分けられます。景帝は諸侯の領地を削減する代わりに、皇帝の直轄地を拡大しようとしたのです。
これに反発した諸侯が連合軍を結成し、反乱を起こしました。
呉楚七国の乱の結果・意義
反乱軍は、所詮は別の国同士による即席連合軍ですから、統率がとれません。結局、呉楚七国の乱はわずか半年で鎮圧されてしまいます。
そしてその後、諸侯の権限は大幅にカットされました。
これにより郡国制はほぼ郡県制と変わりなくなり、漢の中央集権体制が確立されることとなりました。
武帝の時代
景帝に続いて即位したのが武帝です。先代の景帝、先々代の文帝が堅実な政治で積み上げてきた資金を使い、積極的な対外遠征をしかけました。名前に「武」が入っているのもそれが理由です。
張騫を派遣
武帝がまず手を打ったのが、漢の北方に位置する匈奴という国です。高祖の時代に漢は匈奴に敗れており、「やっかいなライバル」でした。
匈奴を討つため、武帝がとったのは挟み撃ち作戦です。中央アジアに位置する大月氏という国と手を組み、匈奴を東西から挟み撃ちにしてしまおうというものです。大月氏もかつて匈奴に敗れた経験があり、漢と同じく匈奴を憎んでいるだろうと武帝は予想しました。そして大月氏にこの挟み撃ち作戦を伝えるため、武帝が派遣したのが張騫という人物です。
こうして大月氏を目指して西へ出発した張騫ですが、肝心の場所がわかりません。そうこうしてる間に張騫は匈奴に捕まってしまい、10年間も匈奴の地で暮らすことになります。匈奴で妻子までもうけた張騫ですが、なんとか脱走し再び西へと向かいました。
そうしてついに大月氏へとたどり着いた張騫ですが、大月氏王に漢との同盟を断られてしまいます。大月氏はすでに栄えており、匈奴への復讐心は消えてしまっていたのです。
張騫は烏孫という国にも同盟をお願いしますが、こちらも断られてしまいます。
結局張騫は同盟を結ぶことができずに漢に帰国しますが、彼の旅は決して無駄ではありませんでした。
張騫が持って帰ってきた西域の知識は漢にとって貴重な情報です。また西域諸国側にしても、「どうやら東に漢という大国があるらしい」と知ることができたのです。こうして西域諸国と漢の間に交易路が開拓され、後にシルクロードと呼ばれる道になりました。
東方・南方へ遠征
武帝は、西だけではなく東と南にも遠征を仕掛けています。南方遠征ではベトナムの南越を滅ぼして日南郡など9つの郡を置き、東方遠征では朝鮮半島の衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪郡など4つの郡を置きました。
財政難への対応
これだけ対外遠征を続けていると、当然漢の財政は悪化していきます。武帝は財政難に対する対応策もとりました。
まずは塩・鉄・酒の専売です。塩や鉄といった生活必需品の生産・販売は民間の業者が行っており、政府は業者に対して課税するのみでした。武帝はそこに目をつけ、生産・販売自体を政府が管理するようにしたのです。
また、均輸法・平準法という法律も制定しました。
均輸法は、地域の特産物を政府が徴収し、これを他の地域で転売することで利益を得る手法です。
平準法は、物価が下落したときに政府が商品を購入し、物価が高騰したときに商品を売り出すことで差額による利益を得ます。
これらの政策により、漢の財政は好転しました。
郷挙里選
また人材登用制度として、郷挙里選の制度を設けました。各地方の長官に、管轄内の地域から優秀な者を推薦してもらい、中央政府で採用する方法です。
漢の地方制度は大きい順に郡・県・郷・里となっており、郷挙里選はその言葉が示す通り、「郷」と「里」から人材を採用する制度です。
そして採用した役人には、儒学を学ばせました。儒学は目上の人への礼節を重視する学問なので、皇帝に権力を集中させるのに役立ちました。
前漢の滅亡
元帝と王政君の息子、12代皇帝の成帝の頃には、王氏の一族が政治の実権を握るようになります。当の成帝は政治をほったらかしです。
13代皇帝の平帝が死去すると、王氏一族の一人である王莽が皇帝に即位し、国号を「新」と改め、高祖の時代から約200年続いた漢はここで一旦断絶しました。
前漢 まとめ
- 項羽に勝利した劉邦は国号を漢と改め、高祖として即位した。
- 景帝に反発した諸侯が呉楚七国の乱を起こしたが鎮圧され、かえって皇帝に権力を集中させる体制が強まった。
- 武帝は対外遠征を積極的に行い、西域には張騫を派遣して東西交易路を開拓した。またベトナムの南越、朝鮮半島の衛氏朝鮮を征服した。
- 遠征により悪化した財政の再建策として、塩・鉄・酒の専売や均輸法・平準法を制定した。
- 外戚の王莽が新を建て、前漢は滅亡した。
前漢 歴代皇帝 | |
名前 | 在位 |
高祖 | 前206年~前195年 |
恵帝 | 前195年~前188年 |
文帝 | 前180年~前157年 |
景帝 | 前156年~前141年 |
武帝 | 前140年~前87年 |
昭帝 | 前87年~前74年 |
宣帝 | 前74年~前49年 |
元帝 | 前49年~前33年 |
成帝 | 前33年~前7年 |
哀帝 | 前7年~前1年 |
平帝 | 前1年~後5年 |