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ペルシア戦争とポリスの変容をわかりやすく解説【ギリシア世界④】

ギリシア世界とオリエント世界が衝突した、ペルシア戦争を解説していきます。

ペルシア戦争のきっかけ

紀元前500年ごろ、オリエント(中東地域のこと)でアケメネス朝ペルシアがぐんぐん勢力を伸ばしていました。そのペルシアがギリシア世界と起こした戦争ペルシア戦争と言います。

ペルシア戦争勃発時の勢力図

当時のペルシアがいかに強大な国だったか、地図を見ればわかりますね。
MEMO
当時、ダレイオス1世が治めるペルシアは絶頂期にありました。

きっかけ

なぜペルシア戦争が勃発したのか、その経緯を確認しましょう。
ペルシア戦争のきっかけ
  1. 領土拡大をもくろむペルシアが、ギリシア世界に圧力をかける。
  2. イオニア地方のギリシア植民市(中心地はミレトス)がペルシアに対して反乱を起こす。
  3. このときアテネはイオニアの反乱を援助しており、これを口実にペルシアがギリシア世界に対して戦争をしかける。
イオニア植民市反乱時の地図

ペルシアにイオニアが反乱

マラトンの戦い(紀元前490年)

ペルシア戦争は50年に及ぶ戦争でした。50年の間に、ギリシア軍とペルシア軍の間にどのような攻防が繰り広げられたのでしょうか。まずはマラトンの戦いを紹介します。
マラトンの戦いは、ペルシア戦争の開始から10年たった頃に始まりました。
ペルシア軍は1万5千人という大軍でアテネの港町、マラトンを攻め込みます。対するアテネ軍は1万人です。しかし終わってみれば、ペルシア軍の戦死者は6400人、アテネ軍の戦死者はたったの192人でした。

なぜアテネは勝てたのか?

なぜ兵士の数で劣るアテネ軍が勝てたのか、両軍の兵士の特徴に理由がありました。
アテネ軍の兵士は「重装歩兵」、それに対してペルシア軍の兵士は「軽装歩兵」でした。両者を比較すると、剣や盾などの武器の性能面で重装歩兵の方が優れています。弓矢を使った長距離攻撃を仕掛けてくるペルシア軍に対して、アテネ軍は接近戦に持ち込むことで重装歩兵部隊の強みを活かしたのです。

サラミスの海戦(前480年)

前480年、ギリシアのサラミス島近海でギリシア艦隊とペルシア艦隊が激突した海戦をサラミスの海戦と言います。

アテネの指導者テミストクレスは「陸上ではペルシアに勝てない。」と判断し、海戦に持ち込みました。
サラミスの海戦ではアテネの無産市民が活躍しました。無産市民とは、お金がなくて武器が買えない人たちのことです。彼らは三段櫂船(かいせん)という船に乗り、船ごと体当たりする戦法でペルシア船を次々に撃沈させていきました。

プラタイアの戦い(前479年)

最後に紹介するのはプラタイアの戦いです。アテネとスパルタの連合軍がペルシアに勝利した戦いです。アテネがスパルタに救援要請を出し、期待通りスパルタの軍事エリートたちはペルシア軍をボコボコにしていきます。

ペルシア軍は20万人以上が戦死した一方で、スパルタ軍の戦死者は91人、アテネ軍は52人だけでした

戦後の影響

プラタイアの戦いをもって、ペルシア戦争はギリシアの勝利が決定的となり、ペルシアはギリシア侵略を諦めました。ギリシア世界がペルシアを撃退したことは、その後ヨーロッパとアジアの区別が生まれるきっかけになったと言えます。

ペルシア戦争を終えて

デロス同盟の結成

見事にペルシア軍を退けたギリシア世界ですが、いつまたペルシアが襲ってくるか分かりません。そこでギリシアのポリスたちは、軍事同盟を組むことにしました。この同盟をデロス同盟といいます。盟主(同盟のリーダー)はアテネが務めました。

MEMO
アテネはペルシア戦争で大活躍したので、他のポリスからの評価も高かったのです。

スパルタはデロス同盟不参加だった

小さいポリスも合わせれば300以上が参加したというデロス同盟ですが、そこにスパルタは参加していませんでした。

スパルタは別の同盟、ペロポネソス同盟の盟主であり、デロス同盟を率いるアテネに対抗心を燃やしていました。

ペロポネソス戦争

二大同盟が激突

盟主アテネのもとにデロス同盟は勢力を拡大していき、ついにはペロポネソス同盟が治める範囲まで進出してしまいました。これによってデロス同盟とペロポネソス同盟の対立は深まり、前431年にペロポネソス戦争が勃発しました。

長期化する戦争

ペロポネソス戦争は長期化し、一時はテーベというポリスがギリシア世界の主導権を握りました。

ペロポネソス戦争が長期化したことによってギリシア世界全体が疲弊し、ポリス社会の崩壊が始まりました。

フィリッポス2世によるギリシア統一

ペロポネソス戦争で混乱するギリシア世界の北部に、マケドニア王国という国がありました。その国王フィリッポス2世は混乱状態のギリシア世界に侵攻し、カイロネイアの戦い(前338年)でアテネ・テーベ連合軍を破りました。そしてフィリッポス2世はスパルタを除く全ギリシアポリスを支配下におさめ、コリントス同盟を結成しました。

POINT
コリントス同盟によって各ポリスは自立性を失い、ギリシア世界におけるマケドニアの覇権が確立されました。

ポリス まとめ

まとめ
  • イオニア植民市の反乱をきっかけに、アケメネス朝ペルシアとギリシア世界の間でペルシア戦争が勃発した。
  • サラミスの海戦では、テミストクレスの指導のもとアテネの無産市民が三段櫂船の漕ぎ手として活躍し、ギリシア軍が勝利した。
  • プラタイアの戦いをもってギリシア軍の勝利が決定的となった。
  • ペルシア戦争後、アテネを中心とするデロス同盟、スパルタを中心とするペロポネソス同盟の間でペロポネソス戦争が勃発した。
  • マケドニアのフィリッポス2世カイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を破り、ギリシア世界は統一された。

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