- 14世紀にトルコ人がつくったイスラム教の国
- 最初は小さな国だったが、ビザンツ帝国に勝ったりして巨大化
- ヨーロッパもオスマン帝国の存在にはビビっていた
オスマン帝国とは? 一言で
小アジアの位置
初期
建国
14世紀、トルコ人によってオスマン帝国は建国されました。さかのぼって11世紀末に、セルジューク朝が小アジアに侵入して、十字軍派遣のきっかけをつくりましたね。セルジューク朝はトルコ人王朝ですから、オスマン帝国はセルジューク朝の人たちの子孫が建国した国だと言えます。
ティムール朝に敗北
建国当初のオスマン帝国は小さな国で、アンカラの戦いではティムール朝に敗れました。オスマン帝国は滅亡の危機に陥りましたが、15世紀なかば、メフメト2世という君主によって立て直され、強国へと成長していきました。
ビザンツ帝国に大勝利!
1453年、メフメト2世は1000年以上存続していたビザンツ帝国を滅ぼし、その都コンスタンティノープルをイスタンブールに改称しました。
イスタンブール歴史地区
イスタンブールは、トルコのヨーロッパ部分とアジア部分を隔てるボスポラス海峡の両岸にまたがる大都市。ローマ帝国、ビザンツ帝国、オスマン帝国と所有者を変えながら、1600年もの間首都として君臨してきた。現在はトルコの最大都市。(首都はアンカラ)
オスマン帝国大勝利の裏側
オスマン帝国がビザンツ帝国に勝利した要因に、メフメト2世がとったある作戦があります。ビザンツ帝国は、自分たちの弱点である「金角湾」にオスマン帝国の艦隊が侵入できないよう、湾の入り口を太い鎖でガードしていました。そこでメフメト2世は正面突破を諦め、400隻もの船団を陸地から山を越えて湾内に無理やり船を入れるという荒業を駆使しました。こうした陸海からの総攻撃によってオスマン帝国は勝利したのです。
全盛期
セリム1世がマムルーク朝を滅ぼす
セリム1世はマムルーク朝というエジプトのイスラーム王朝を滅ぼしました。これにより、それまでマムルーク朝が管理していたメッカ・メディナの両聖都を手に入れました。これは、オスマン帝国がイスラーム教の主役になったことを意味します。
第1次ウィーン包囲
- 第1次ウィーン包囲:オスマン帝国がウィーンを攻めたけど失敗した戦い
プレヴェザの海戦
- プレヴェザの海戦:オスマン帝国がヨーロッパ連合軍に勝った戦い
オスマン帝国の最大領域(スレイマン1世の時代)
オスマン帝国 まとめ
- 14世紀、トルコ人によってオスマン帝国が小アジアに建国された。
- ティムール朝に敗れて一時滅亡の危機を迎えたが、国力を回復させたメフメト2世は1453年にビザンツ帝国を滅ぼした。
- セリム1世はマムルーク朝を滅ぼし、メッカ・メディナの両イスラーム聖地を手中に収めた。
- スレイマン1世は第1次ウィーン包囲に失敗したが、ヨーロッパ世界に脅威を与えた。
- プレヴェザの海戦ではスペイン・ヴェネツィア連合艦隊に勝利し、地中海を制覇した。