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プランタジネット朝(中世イギリス)

王権に注目!

中世西ヨーロッパ世界の各国の歴史を見ていきましょう。まずはイギリスです。中世のイギリス史を見る視点としては、王権の強さがどう変わっていくかに注目してみましょう。
中世西ヨーロッパでは十字軍をきっかけに教皇権が衰退して、代わりに各国の王様の権力が強くなっていきましたよね。ということは、イギリスも同じなのでは?

確かにそう思いますよね。しかし、イギリスに関しては例外なのです。十字軍遠征が始まる前から、イギリスでは王権が強かったんです。まずはその理由について解説していきます。

ノルマン朝は征服王朝

話はノルマン人の大移動にさかのぼります。民族移動の混乱の中、ノルマンディー公ウィリアムという人物が大ブリテン島に攻め込み、ノルマン朝(1066~1154)を建て、ウィリアム1世として即位しました。
ノルマン=コンクエストですね。覚えてますよ。

コンクエストには「征服」という意味があります。文字通り、ウィリアム1世が武力で制圧してノルマン朝を建てたのです。だからノルマン朝では最初から王権が強かったのです。
なるほど。国民からすれば、喧嘩の強い王に逆らうのは怖いですもんね。

ヘンリ2世

ノルマン朝は100年もたたずに断絶して、新たにプランタジネット朝(1154~1399)が始まります。初代の王はヘンリ2世(在位:1154-1189)という人物です。このヘンリ2世は出身が少し変わっていて、もともとはフランス王の家臣でした。しかし血筋の関係から、プランタジネット朝の王に即位することになりました。

ヘンリ2世はフランス西部に広大な領地を持っていました。なので、ヘンリ2世が王になった時点でイギリスはフランスの西半分を領有している状態になりました
地図
そんなことになると、イギリスとフランスの関係が悪化しそうですね。

もちろん悪化します。フランスからすれば、戦争に負けたわけでもないのに領土を奪われたことになりますからね。ヘンリ2世の後を継いだのが、その子、リチャード1世(在位:1189-1199)です。第3回十字軍でサラディン率いるアイユーブ朝と戦った人物です。リチャード1世はずっと戦場に出ずっぱりだったので、王としての実績はあまりありません。

ジョン

リチャード1世が戦死し、王位を継いだのが、リチャード1世の弟のジョン(在位:1199-1216)です。今までの王は「〇〇1世」とかだったのに、急に「ジョン」です。これは、ジョン王があまりに無能な王であったために、この後のイギリス王室ではジョンという名前が避けられるようになったからです。
そんなにですか…可哀想なぐらい嫌われてるんですね。一体ジョン王は何をやらかしたんでしょう。

絶頂期の教皇に逆らってしまい…

ジョンはローマ=カトリック教会内の人事に口を出し、教皇インノケンティウス3世から破門を言い渡されています。
インノケンティウス3世と言えば、教皇権全盛期時代のローマ教皇ですよね。なんて身の程知らずなことを…

覚えてる?
中世ヨーロッパでは神聖ローマ皇帝とローマ教皇が対立していた。11世紀の叙任権闘争において教皇の優位が決定的となり、インノケンティウス3世のときに教皇権は絶頂に達した。

フランスの領土喪失

さらにジョン王は、フランス王フィリップ2世との戦争に負けてしまい、初代王のヘンリ2世から受け継いできたフランスにおける領土の大半を失いました。そして戦争にはたくさんのお金が必要です。ジョン王は戦費捻出のために、議会を通さずに国王特権で臨時課税を乱発しました。
そんなことすると、国民の反発は凄まじいんじゃないですか?結果戦争にも負けてるし。

その反発が形になったのが、1215年の大憲章(マグナ=カルタ)という法律です。貴族たちが結束してジョン王に反抗し、これを認めさせました。これによって、新たな課税には貴族の承認が必要になりました。
無能なジョン王に好き勝手させないために、法律で縛ろうとしたんですね。

POINT
成立から800年が経過した現在でも、マグナ=カルタは現行法となっている。マグナ=カルタによってイギリス立憲政治の基礎が築かれたと考えられる。

ヘンリ3世

残念なジョン王の後を継いだのがその子、ヘンリ3世(在位:1216-1272)です。ヘンリ3世もあまり大した結果を挙げられていません。
子は父に似るものですね…

ヘンリ3世はマグナ=カルタを無視して政治を行おうとしたので、シモン=ド=モンフォールという人物が貴族を率いて反乱を起こしました。その結果、国内の貴族・聖職者・市民が集まって政治について話し合う権利を勝ち取りました。

エドワード1世

ヘンリ3世の次の王、エドワード1世模範議会を開いたことで有名です。社会各層から代表者を広く募って議会を開いたので、後の時代に「模範」と呼ばれるようになりました。
時代が進むにつれて、国王の権力が弱まっている感じがしますね。

それが中世イギリスのポイントです。王権に対して議会の力が強まっていくことを押さえておきましょう。
POINT
シモン=ド=モンフォールや模範議会によって、現在に続くイギリス議会政治の基礎が築かれた。

エドワード3世

議会の変化

エドワード3世(在位:1327-1377)の時代には、上院(貴族院)と下院(庶民院)で構成される二院制議会が確立しました。上院は貴族と聖職者 、下院は各州の騎士と各都市の代表で構成されました。

百年戦争、王朝断絶へ

エドワード3世の在位中に、イギリスとフランスの間に百年戦争(1339~1453)が勃発しました。百年戦争の期間中に、プランタジネット朝最後の王リチャード2世は貴族から王位を追放され、1399年にプランタジネット朝は断絶しました。