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ステュアート朝をわかりやすく解説

ざっくり要点
  • 17、18世紀のイギリス王朝のこと
  • ピューリタン革命によって国王が処刑され、イギリス史上初の共和政が始まった時代。
  • 17世紀末に立憲王政が確立され、近代国家への準備を進めた。

ステュアート朝とは?

ステュアート朝とは、1371年から1714年まで続いたスコットランド起源の王朝です。1603年以後はイングランド国王もステュアート家から輩出されるようになりました。
今回は、イングランドにおけるステュアート朝の流れを解説していきます。
年表

イングランド(イギリス)の歴代王朝

成立期

イングランドでステュアート朝が始まる前の王朝はテューダー朝です。テューダー朝最後の王を務めたエリザベス1世には子供がいなかったので、国王の後継者がいませんでした。そこでお隣のスコットランドから、テューダー家と血縁関係のあるステュアート家が招かれました。当時のスコットランド王ジェームズ6世がイングランド国王も継承し、ジェームズ1として即位しました。ここからイングランドにおけるステュアート朝が始まります。

ジェームズ1世

ステュアート家から来たジェームズです。イングランド国王も兼任することになったんで、イングランドの皆さんよろしくね。

歴代の国王

ステュアート朝歴代国王
    1. ジェームズ1世:初代国王。王権神授説を信奉して議会と対立
    2. チャールズ1世:議会を解散させる。ピューリタン革命で処刑される。

共和政(国王不在):クロムウェルによる独裁。

  1. チャールズ2世:カトリックを保護。
  2. ジェームズ2世:名誉革命により国外追放。
  3. ウィレム3世・メアリ2世:権利の章典を発布。立憲王政が確立
  4. アン:スコットランドとイングランドが合併。大ブリテン王国成立。

イングランドのステュアート朝で国王を務めた人物を紹介していきます。途中で、共和政(国王のいない政治体制)が挟まっているのがポイントです。

ジェームズ1世

議会軽視のワンマン王

初代国王のジェームズ1世(在位:1603~25年)は王権神授説(国王の権力は神からの授け者である、という考え方)を信奉し、議会を軽視する政治を行いました。しかし、イングランドは伝統的に議会を重視する国です。過去の国王も皆、議会と協力して政治を行ってきました。そんな中ジェームズ1世の議会軽視の姿勢は、当然議会からの反感を買いました。

ジェームズ1世

国王は議会よりも偉いんだ。イングランドの伝統など知ったこっちゃないわ。

イギリス国教会を信仰

国内の宗教に関しては、イギリス国教会の信仰を国民に強制しました。その一方で、カトリックとピューリタン(イギリスにおけるキリスト教カルヴァン派のこと)を厳しく弾圧しました。

MEMO
イギリス国教会は国王をリーダーとする宗教なので、絶対王政を強化したいジェームズ1世にとって都合の良い宗教でした。

チャールズ1世

ジェームズ1世の子、チャールズ1(在位:1625~49年)は父の政策を引き継いで、議会の軽視とピューリタン弾圧を進めました。
議会は「権利の請願」を提出して対抗しましたが、チャールズ1世は議会を解散させてしまいます。こんな調子ですから国王と議会の溝は埋まらず、最終的に王党派と議会派による武力衝突に発展しました。(ピューリタン革命
内戦は議会派が勝利し、チャールズ1世は公衆の面前で処刑されました。ここからイギリスは史上初の共和政(王がいない政治体制)に突入します。

クロムウェルの共和政

イギリスの共和政は、ピューリタン革命を指揮したクロムウェルが実権を握りました。しかしクロムウェルの独裁的な政治に国民は不満を募らせ、クロムウェルの死後に再び王政に戻りました。この出来事を「王政復古」と言います。一度死んだステュアート朝の復活です。

チャールズ2世

ステュアート朝の第2章の始まりです。王政復古によって国王に就いたのがチャールズ2(在位:1660~85年)です。しかしこのチャールズ2世もまた、議会軽視の政治を行いました。歴史は繰り返すとはよく言ったものです。

カトリックを強制

話を少し戻します。即位前の共和政の期間、チャールズ2世はフランスに亡命していました。当時のフランスと言えば、ルイ14世による絶対王政全盛期です。ルイ14世は絶対的な王であると同時に、熱心なカトリック信者でもありました。そんなルイ14世に影響を受けたチャールズ2世は、自身がイギリス王に即位してから、国民にカトリックの信仰を強制しました。

議会の抵抗

カトリックを強制するチャールズ2世に抵抗するべく、議会は審査法を制定しました。この法律で、議員などの公職者をイギリス国教徒に限定しました。さらに国民の不当な逮捕・投獄を防ぐべく、人身保護法も制定しました。

ジェームズ2世

チャールズ2世の弟、ジェームズ2(在位:1685~1688年)もまた専制的な政治を行いました。耐えきれなくなった議会は、遂にジェームズ2世を国外追放することにしました。代わりに国王に招かれたのが、オランダの総督ウィレム3世と妻のメアリです。メアリはジェームズ2世の娘なので、ステュアート家の血筋でもありました。一滴の血も流れずに国王を変えさせたこの出来事を、名誉革命と言います。

ウィリアム3世・メアリ2世

ウィレム3世とメアリは、改めてウィリアム3メアリ2として共に王位につきました(在位:1689~1702年)。このとき2人は、議会が作成した「権利の宣言」を受け入れました。「権利の宣言」では国王よりも議会が優位であることが示されており、同年には「権利の章典」として成文化されました。これを持ってイギリスに立憲王政(王は存在するが、憲法がその権力を制御する政治体制)が確立したのです。

アン

ステュアート朝最後の王は、メアリの妹のアン(在位:1702~14年)です。彼女の時代に、それまで同君連合(君主が同一人物の国)だったイングランドとスコットランドが合併して、大ブリテン王国が誕生しました。

ハノーヴァー朝へ

アンの死後、ステュアート家血筋の後継者がいなくなったので、議会は国外から王を招きました。このとき選ばれたのが、ドイツのハノーヴァー家のジョージ1です。ここから始まるハノーヴァー朝は、現在も続くウィンザー朝の祖です。

ステュアート朝 まとめ

まとめ
  • テューダー朝断絶後、スコットランドからステュアート家が王家に招かれた。初代国王のジェームズ1世は議会と対立した。
  • 国王と議会の対立が深まり、ピューリタン革命が勃発した。チャールズ1世は処刑され、クロムウェルによる共和政が始まった。
  • クロムウェルの独裁に反発して王政が復活したが、チャールズ2世は国民にカトリック信仰を強制するなどした。議会は審査法や人身保護法で国王に対立した。
  • 議会はジェームズ2世を追放し、新たにウィリアム3世とメアリ2世を王に迎えた(名誉革命)。同年に権利の章典を発布し、立憲王政が確立された。
  • アン女王の時代にイングランドとスコットランドが合併して大ブリテン王国が成立した。