ビザンツ帝国=東ローマ帝国
ローマ帝国分裂後
395年、ローマ帝国が東西に分裂して、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分かれましたね。その後、西ローマ帝国はどうなったかはちゃんと覚えていますか?
程なくして、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入を受けて滅ぼされました。ゲルマン人によって、現在の西ヨーロッパ世界に通ずる基礎部分が形成されたと言えます。
その通りです。その一方で、東ローマ帝国は1000年以上も存続したのです。
分裂後の2国は全く違う運命を辿ったんですね。
後に、東ローマ帝国はビザンツ帝国と呼ばれることになります。ここからは便宜上ビザンツ帝国で統一して話を進めていきます。
難攻不落のコンスタンティノープル
ゲルマン人が西ローマ帝国を滅ぼした後は、ビザンツ帝国まで攻めてきたんでしょうか?
はい。ゲルマン人はビザンツ帝国にも侵入を試みましたが、失敗しました。その理由の一つに、ビザンツ帝国の首都であるコンスタンティノープルの鉄壁があります。強固な城壁で街を守り、1453年の陥落まで1000年に渡って難攻不落を誇りました。現在も当時の名残が残っています。
ユスティニアヌス帝
ビザンツ帝国は、ユスティニアヌス帝(在位:527-565)の時代に最大領土を誇りました。こちらの地図が当時のビザンツ帝国の領土です。
ビザンツ帝国の成立が395年だから、割と早い段階で成長したんですね。
ユスティニアヌス帝は、かつての偉大なるローマ帝国を復興させたいという思いから、領土拡大に尽力しました。また内政面では、『ローマ法大全』の編纂、ハギア=ソフィア大聖堂の建立などの事業を行いました。
異民族の侵入
ユスティニアヌス帝の領土拡大には代償もありました。征服戦争の長期化によって、国力が低下したことです。
戦争はお金かかりますもんね。
ユスティニアヌス帝の死後、異民族の侵入を受けてビザンツ帝国の領土は縮小していきます。
ビザンツ帝国に侵入した国・民族
- イタリア方面:ランゴバルド王国、フランク王国
- 北方:スラヴ人、ブルガール人
- シリア・エジプト方面:ササン朝ペルシア、アラブ人ムスリム(正統カリフ時代)
四方八方から、侵入されまくりですね。
軍管区制と屯田兵制
ビザンツ側も、異民族侵入への対策措置をとりました。それが軍管区制(テマ制)の導入です。領土をいくつかの軍管区に分け、皇帝が任命した司令官に各区を統括させる制度です。
皇帝一人だけじゃ、地方の統治まで手が回りませんもんね。
もう一つ、軍管区制とセットで覚えてほしいのが、屯田兵制です。各軍管区に住む農民たちは、土地を与えられる代わりに兵役の義務を負いました。
貰った土地を守るためなら、農民は必死に戦いますもんね。
混乱期
セルジューク朝の侵入
11世紀後半には、イスラーム勢力の強敵セルジューク朝の侵入を受け、小アジアの領土を奪われました。
ユスティニアヌス帝の時代には地中海をぐるっと囲むほど大きかった領土が、ここまで小さくなってしまったんですね。
このピンチを乗り越えるべく、11世紀以降ビザンツ帝国はプロノイア制を実施しました。国の領土を分割して、各地の貴族に統治を任せる代わりに、軍役奉仕を義務付ける制度です。軍事力アップを狙った制度ですが、ビザンツ帝国の国としてのまとまりを失っていくことにもなりました。
十字軍
セルジューク朝による侵攻を食い止めるため、ビザンツ皇帝アレクシオス1世はローマ教皇に救援要請をしました。
ビザンツ帝国とローマ=カトリック教会って、敵対関係でしたよね。それでも助けを求めるってことは、相当なピンチだったんですね。
要請を受けたローマ教皇ウルバヌス2世は、クレルモン宗教会議を開いて、ビザンツ帝国擁護のために十字軍を派遣することを決定しました。
第4回十字軍
しかし1202年の第4回十字軍で悲劇が起こります。ヴェネツィア商人が裏で手を回し、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルが十字軍によって占領されたのです。十字軍はこの場所にラテン帝国を建設しました。
本来の目的と真逆になっちゃってるじゃないですか!いったい十字軍は何をやってるんだ…
ビザンツ帝国はこれによって領土のほとんどを失いました。
オスマン帝国によって滅亡
1000年以上続いたビザンツ帝国も、とうとう最期を迎えます。1453年、メフメト2世率いるオスマン帝国によってビザンツ帝国は滅亡しました。
東西のローマ帝国が、遂にこれで両方滅亡したんですね。なんだか寂しいですね。