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秦をわかりやすく解説【古代中国】

史上初の中国統一

前770年から、中国は「春秋・戦国時代」という、分裂と抗争の時代を迎えていました。
そんな春秋・戦国時代 は、ある王朝の中国統一によって終結します。それが今回紹介するしんです。
戦国の七雄」のひとつであった秦は、他のライバル国を次々に征服して中国を統一しました(前221年)。
古代中国の王朝の変遷
戦国の七雄が割拠する中国

戦国の七雄(紀元前300年頃)

秦統一後の中国

秦の統一後(前220年頃)

秦が強国化した要因に、商鞅しょうおうという人物が行った改革があります。商鞅は、諸子百家のひとつ、法家です。

商鞅は、法律で民衆を縛ることで社会秩序を保とうとしました。このやり方を「法治主義」といいます。また、功績のある者には賞を与え、罰すべき者は必ず罰するという「信賞必罰主義」も徹底しました。なんとも厳しめな統治のようにも聞こえますが、結果的に秦は非常に統率のとれた国となりました。

こうして強国化した秦は、政という王の時代に、中国を統一します。
政は、自らを「皇帝」と名乗りました。普通の王よりも、さらに輝かしい王であることを意味します。
中国史上、「皇帝」という称号を使ったのは政が初めてでした。なので、彼は「始皇帝」と呼ばれます。

政(始皇帝)

史上初めて中国を統一したんだぞ!「王」なんて称号では足りないだろう!

始皇帝の政治

始皇帝は、秦を厳しく支配するためにさまざまな改革を行いました。
その中身を見ていきましょう。

郡県制

中国を統一したことで、秦の領土はとても広大です。そんな大きな領土の隅々まで、始皇帝一人で統治することは当然できません。かといって、地方出身の「地元愛が強くて仕事がデキる奴」に地方統治を任せてしまうと、始皇帝の言うことを聞かないかもしれません。

そこで採用されたのが郡県制です。全国を郡に分け、その下に県を置き、各地に皇帝が任命した官僚を派遣するのです。これで、皇帝が全国を直接支配するようになったのです。

郡県制の仕組みの図解

郡県制の仕組み

長城の修復

郡県制により、皇帝の命令一つでたくさんの民衆を動かすことができるようになりました。そのおかげで、大規模な工事だってできます。

そこで始皇帝は、戦国時代の諸国が築いてきた長城(現在は世界遺産の万里の長城)を修復し、さらに延長しました。北方異民族の匈奴きょうどの侵入に備えることが目的です。

世界遺産
万里の長城

万里の長城

西端から東端までの総延長は6,352km。人類史上最大の建造物と言われている。一般に言われる万里の長城は、明の時代に構築され
た部分を指すことが多い。

度量衡・貨幣・文字の統一

また始皇帝は、戦国時代は各国ごとにバラバラだった「基準」を統一しました。

まずは度量衡どりょうこうです。度量衡とは、長さ(度)・体積(量)・重さ(衡)の基準です。
さらに貨幣の基準として半両銭を鋳造し、文字は篆書てんしょに統一しました。

半両銭

半両銭

篆書体

篆書体で書く「帝」

焚書・坑儒

始皇帝は「思想」の統一すら目指します。
まず、自分の政治に都合の悪いことを書いている書物は燃やしてしまいます。これを「焚書ふんしょ」と言います。
さらに、始皇帝に批判的な儒家たちを生き埋めにしてしまいました。これを「坑儒こうじゅ」と言います。

わずか15年で滅亡へ

様々な改革をおこなった始皇帝でしたが、50歳で急死します。在位はわずか11年間でした。
これだけ短期間で改革を一気に進められると、民衆はついていけません。そのため、始皇帝の死後、民衆の不満が爆発しました。
その皮切りとなったのが陳勝ちんしょう呉広ごこうの乱(前209年)です。

陳勝・呉広の乱

陳勝と呉広は人物名です。彼らは二人とも、辺境の警備に就くよう任命された、名もなき貧民でした。

ところが、警備に赴く道中、大雨のせいで期日までに辿り着くことが困難になりました。当時の秦のルールでは、遅刻=死刑です。
この状況で陳勝と呉広は、「どうせ死刑になるなら、デカいことやって死んでやろうぜ!」と開き直ります。他の仲間たちにも呼びかけ、秦への反乱を開始しました。
しかし、わずか6カ月で鎮圧されてしまい、陳勝と呉広はともに戦死してしまいます。

ただ、無駄な反乱ではありませんでした。
陳勝・呉広の乱をきっかけに各地で農民反乱が起こり、秦は崩壊へと向かい、代わって王朝が成立します。

秦 まとめ

まとめ
  • 秦は商鞅の改革で強国化し、政王(始皇帝)の時代に戦国時代を終わらせ中国を統一した。
  • 地方には皇帝が任命した官僚を派遣し、皇帝が直接全国を支配した(郡県制)。
  • 「焚書・坑儒」で始皇帝への反対思想を弾圧した。
  • 始皇帝の死後、陳勝・呉広の乱をきっかけに農民反乱が頻発し、秦は滅亡へと向かった。