教皇権は下り坂
西ヨーロッパ全体に権力を振りかざしていたローマ教皇ですが、十字軍の失敗をきっかけに衰退していきます。
十字軍の言い出しっぺは教皇ですもんね。当然の流れだと思います。
覚えてる?
1095年に開かれたクレルモン宗教会議で、当時のローマ教皇ウルバヌス2世が十字軍の派遣を決議した。
教皇と入れ替わるように、各国の王様が力をつけていきます。都市と商業が発展するにつれて、強力なリーダーシップで市場をまとめてくれる政治権力を市民は必要としていました。さらに、没落した領主たちが国王に仕えるようになったことも要因です。
国王と教皇のパワーバランスが逆転してきましたね。
そんな中、ローマ教皇の権威失墜を決定づける、ある象徴的な事件が起きます。
アナーニ事件
フランス国王vs教皇
事の発端はフランス国王、フィリップ4世です。フィリップ4せは、当時毛織物生産で繁栄していたフランドル地方の獲得を狙っていました。土地を獲得するには戦争がつきものですね。そこでフィリップ4世は、聖職者に課税することで戦争の費用をまかなおうとしました。これに激怒したのが、ローマ教皇ボニファティウス8世です。
フィリップ4世
フランドル地方欲しいな~でも戦争するお金もないしな~。そうだ!聖職者に課税してやろう!
おいおいフィリップ4世君、国王ごときがキリスト教に対して課税するとは何ごとかね?
ボニファティウス8世
フィリップ4世の勝ち
まもなくしてフィリップ4世はイタリアに軍隊を派遣しました。ボニファティウス8世は慌ててアナーニというイタリアの都市に逃げ込みましたが、あえなくフィリップ4世に捕らえられてしまいます。この事件のことをアナーニ事件(1303年)といいます。ボニファティウス8世は屈辱のあまり、その後「憤死」しました。
なんだか情けない終わり方ですね…
かつての「カノッサの屈辱」のときは国王は教皇に謝罪しましたよね。今度はそれと真逆の出来事が起こったわけです。
覚えてる?
カノッサの屈辱・・・1077年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世がローマ教皇グレゴリウス7世に謝罪した事件。ハインリヒ4世は、教皇の破門解除を求めて雪の中3日間謝罪し続けた。
さらに低迷するローマ教皇
教皇のバビロン捕囚
さらにフィリップ4世はローマ教皇を揺さぶっていきます。教皇庁をフランスのアヴィニョンという町に移転させ、教皇を自分の監視下に置きました。この事件を「教皇のバビロン捕囚」(1309~77年)といいます。
バビロン捕囚?聞いたことあるような…
古代オリエントで登場する用語ですね。新バビロニアに征服されたユダ王国のユダヤ人たちが、バビロンに連行された出来事です。「バビロン捕囚のローマ教皇バージョン」といったところでしょうか。
世界遺産
アヴィニョン歴史地区
14世紀にローマ教皇庁がこの地に移されて発展した。アヴィニョン時代の教皇の多くが派手好きで、宮殿の増改築が頻繁に行われた。
教皇の乱立
アヴィニョンからローマに教皇庁が戻された後、アヴィニョンで新たに教皇がたちました。彼は「ローマの教皇はもはや正統ではない」と主張し、両教皇は対立しました。さらにイタリアのピサでも教皇が成立し、3人のローマ教皇が共存するという異常事態に陥りました。これを教会大分裂(大シスマ)といいます。
内部分裂ですか…大変な時に何やってるんだって感じですね。
この事態は、教会と教皇の権威低下を象徴するものになりました。
キリスト教の革新運動
ウィクリフ
こうして腐敗・堕落してしまったキリスト教を何とかしたいとする動きもありました。イングランドの大学教授であったウィクリフはその先駆者です。
ウィクリフ
教皇も教会もだめだ。聖書こそが大事なんだ!
ウィクリフは聖書を信仰の最高権威であるとし、聖書を英訳して普及に努めました。、
フス
ベーメンの思想家フスはウィクリフに影響を受けた人物です。教皇から破門を言い渡されながらも、ひるまずに教会を批判しました。
でもこれだけ好き勝手言われていると、教会側も黙ってないんじゃないですか?
そうですね。この頃にはウィクリフは既に亡くなっていましたが、フスはこの後思いもよらぬ最期を迎えることになります。
コンスタンツ公会議
1414~18年に開かれたコンスタンツ公会議にて、ウィクリフとフスの主張は異端であるとされ、フスは火あぶりの刑に処せられました。ウィクリフの墓も掘り起こされ、遺体は著書と共に焼かれました。
遺体を改めて焼き払うなんて、凄い徹底ぶりですね..
また、この会議では教会大分裂についても話し合われました。その結果、3人いる教皇のうちローマ教皇が正統であるとされ、教会大分裂は終結しました。
教皇権は回復せず
しかしその後もフスに賛同していた者たちによる反乱(フス戦争)が起こるなどして、教皇権の勢いが戻ることはありませんでした。キリスト教の革新運動はまだまだ終わることはなく、16世紀の宗教改革へと繋がっていきます。